20話 女王の初夜は、執務室で
戴冠式の狂乱から数時間。王都を揺るがした歓声は、夜の帳と共に静かな熱気へと変わっていた。
だが、新女王となった私に、横になる暇など一秒も与えられなかった。
「……リゼット、手が止まっているぞ。次は隣国バルトスとの関税撤廃に関する最終確認だ」
兄カイルが、容赦なく書類の束を私の机に叩きつける。
漆黒の女王用ドレスは、すでに数カ所のボタンを外し、少しだけ着崩していた。金剛石の冠は机の端に放り出され、今はただの文鎮と化している。
「……兄様、鬼ですわ。戴冠式当日の夜に、深夜三時まで仕事をさせる女王なんて、歴史上私くらいなものじゃないかしら?」
「……フン。歴史を作るのはいつだって、不眠不休の狂人だ。……さあ、サインしろ。これが終われば、旧貴族たちの資産凍結リストに移行する」
(……ああ、スローライフ。……私の夢見た、レオに甘やかされる自堕落な日々は、どこへ行ったのかしら)
私が重い羽根ペンを握り直した、その時だ。
「――カイル殿。……お嬢様の『脳の休息時間』を、これ以上削るのは感心しませんね」
影の中から、冷ややかな、けれど絶対的な拒絶を含んだ声が響いた。
レオだ。
彼はいつの間にか、私の背後に立っていた。その瞳は、暗闇の中でも不気味に紅く光っている。
「……レオか。……見ての通り、国を一つ作り替えるのは、魔人を一人倒すより手間がかかるのだ」
「……それはあなたの仕事でしょう。……リゼットは、私のものです。……そして、今夜は彼女の『初夜』だ。……国事よりも優先されるべき儀式がある」
レオの手が、私の肩を優しく、けれど抗えない力で包み込んだ。
カイル兄様は眼鏡の奥の目を細め、レオと私を交互に見比べると、わざとらしく溜息をついて書類をまとめた。
「……やれやれ。野獣の遠吠えがうるさくて、計算が狂いそうだ。……リゼット、残りは明日の朝六時までに終わらせておけよ」
兄様はそれだけ言い残すと、颯爽と執務室を後にした。
……カイル兄様、逃げるのが早すぎますわ。
静まり返った執務室。
残されたのは、私と、殺気にも似た「欲」を隠そうともしないレオだけ。
「……レオ、離して。まだ仕事が……」
「……いいえ。……離しません」
レオが私の椅子を強引に回転させ、自分の方を向かせた。
彼はそのまま私の前に跪き、私の両膝の間に自分の身体を割り込ませる。
「……お嬢様。……あなたは今日、世界を手に入れました。……ですが、それは私にとって、非常に不愉快なことでもあるのです」
レオが私の腰を引き寄せ、その顔を私の腹部に押し当てた。
彼の熱い吐息が、薄いドレス越しに肌へ伝わってくる。
「……なぜ? ……貴方が私を女王に、と言ったのよ?」
「……ええ。……ですが、民衆が貴女に向ける賞賛の眼差し、他国の男たちが貴女に向ける卑しい欲望……。それらすべてを、今すぐこの手で握りつぶしたくてたまらない。……貴女が玉座に座るたび、私は貴女が『遠くへ行ってしまう』ような錯覚に陥る」
レオが顔を上げ、私を見つめた。
その瞳に宿る、1000%の独占欲。
彼は私の手を取り、その指先を一本ずつ、愛おしそうに、けれど威嚇するように口に含んだ。
「……だから、刻み込まなければならない。……この国も、この玉座も、すべては私がお嬢様を『閉じ込めておくための箱』に過ぎないということを。……リゼット。……貴女の心も、身体も、髪の毛一本に至るまで……すべては、私のものです」
「……レオ……。貴方、本当に重いわね」
「……重い? ……いいえ、足りないくらいです。……死が二人を分かつまで? ……そんな甘い言葉では、私の飢えは癒えません。……死してなお、あなたの魂を、私の影の中に繋ぎ止めてみせる」
レオの影が、執務室の壁いっぱいに広がり、巨大な翼のように部屋を包み込んだ。
彼の「魔人」としての力が、情欲と結びついて暴走しかけている。
(……ああ。……女王になった瞬間に、私は世界で一番安全で、一番危険な『愛の檻』に、完全に入ってしまったのね)
私は観念して、レオの頬に触れた。
「……分かったわよ、レオ。……今夜は、貴方の好きにしていいわ。……その代わり、明日の仕事は手伝ってちょうだいね?」
「……御心のままに。……マイ・レディ」
レオが、私の唇を塞いだ。
それは、騎士としての忠誠ではなく、一人の男としての、呪いにも似た「誓約」だった。
その頃。
国境を越え、隣国の貧民街に逃げ延びたアストル王子は、空腹に耐えかねて、ある「怪しげな男」から一振りの剣を買い取っていた。
その剣の鍔には、レオの瞳と同じ、禍々しい紅い宝石が埋め込まれており……。




