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第9話:隠密の来襲と、リリスの激怒


 アルスが授かった『名誉領主』としての新しい生活は、驚くほど平穏に始まった。

 午前中は広大な庭で薬草の世話をし、午後は村人たちの診察や薬の配布。そして夜は、少しずつ料理が上達してきたリリスと一緒に食卓を囲む。


 王都での過酷な冒険者生活が嘘のような、満たされた時間が流れていた。

 だが、その平穏を切り裂く影が、音もなく屋敷に忍び寄っていた。


「……いたな。『聖者』と呼ばれる調合師」


 深夜、月明かりが差し込むリビングに、黒い装束に身を包んだ男たちが三名、音もなく降り立った。勇者レオンが放った、王都でも指折りの実力を持つ隠密部隊だ。


 彼らは熟練の技術で気配を消し、眠っているであろうアルスの寝室を目指そうとしていた。


「止まれ。それ以上、一歩でも動けば……貴様らの命はないぞ」


 冷徹な声が、暗闇の中から響いた。

 隠密たちが驚愕して振り返ると、そこにはソファに深く腰掛けたリリスがいた。マントを脱ぎ捨てた彼女の背中からは、巨大な漆黒の翼が広がり、禍々しい魔力が部屋を支配している。


「な、なんだ、その化け物は……!? 魔族か!?」

「化け物、か。……アルスの前では乙女を演じてやっているが、貴様らのような羽虫にまで舐められる筋合いはない」


 リリスの紅い瞳が、殺意を孕んで細められた。

 隠密のリーダー格が、震える手で短剣を抜いた。


「我らは勇者レオン様の命で『聖者』を迎えに来た! 邪魔をするなら、たとえ魔族だろうと斬り捨てるまで!」


「レオン……?」


 その名を聞いた瞬間、リリスの周囲の空気が凍りついた。


「……ああ、あのゴミ共のことか。アルスを無能と罵り、傷だらけにして放り出した、あの臆病者たちのことだな?」


 リリスが立ち上がると、そのプレッシャーだけで床に亀裂が入った。


「アルスは今、ようやく幸せを手に入れたのだ。彼が愛したこの村で、誰に怯えることもなく笑っている。……それを再びあの地獄へ連れ戻そうというのか。貴様ら、死ぬよりも辛い恐怖を味わいたいようだな」


「が、はっ……!?」


 隠密の一人が、喉を掻きむしって膝をついた。リリスが放った「威圧」だけで、強靭な肉体を持つはずの男の精神が崩壊しかけていた。

 リリスは一瞬で距離を詰めると、リーダーの首を細い指で軽々と吊り上げた。


「アルスの眠りを妨げるなと言ったはずだ。……貴様らのあるじに伝えておけ。次はない、とな」


 リリスが指を弾くと、黒い衝撃波が隠密たちを直撃した。

 悲鳴を上げる暇もなく、彼らは屋敷の窓を突き破り、遥か彼方の森まで吹き飛ばされていった。


 静寂が戻った部屋で、リリスは深く溜め息をつき、翼をしまった。


「……全く、虫ケラが」


 ふと背後で、パタパタと足音が聞こえた。


「リリス? どうしたの、こんな時間に起きて」


 パジャマ姿のアルスが、目をこすりながらリビングに現れた。


「あ、アルス! ……あ、いや、なんでもない。少し窓の締まりが悪くてな、風で開いてしまったのだ」


 リリスは慌てて、粉々になった窓ガラスの前に立ち、それを隠すように背を向けた。


「そうなんだ。……でも、リリス、なんだかすごく怒ってるような顔をしてるけど」

「そ、そんなことはない! ……ただ、少しお前の寝顔が恋しくなってな」


 リリスが顔を赤らめて視線を逸らすと、アルスは「あはは、変なリリス」と笑いながら彼女の隣に座った。


「明日、また美味しいポーションを作ってあげるから。……もう寝よう?」

「……ああ。そうだな、アルス」


 アルスの無垢な笑顔に触れるたび、リリスの中の荒ぶる魔族の血が、静かに鎮まっていく。

 だが彼女は心に決めていた。アルスの平和を乱す勇者たちが再び現れるなら、その時は自分一人の手で、彼らを奈落の底へ叩き落としてやると。


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