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第51話:鋼鉄の揺りかご、沈黙する大陸


 空を埋め尽くした黒いグリッド。それは巨大な回路図のように聖シュトラーウス公国の天を覆い、かつて青かった空を無機質な「鉛色のディスプレイ」へと変貌させていた。


「……あ、ああ……。身体が、動かない……のですわ……」


 セレナがその場に崩れ落ちた。彼女の透き通るような肌には、伊集院徹の遺した【侵食】プログラムの末端である「黒い回路」が、血管をなぞるように浮き上がっている。それは個人の意志を奪い、世界という巨大な演算機の一部へと強制的に書き換える、魂の凍結だった。


 リーフ村の周囲では、正気を取り戻したはずの聖騎士たちが、再び「部品」へと戻されていた。彼らの背中から生えた鋼鉄の多脚が、カチカチと不気味な同期音を立て、アルスを包囲する。その瞳には、もはや憎しみすら存在しない。ただ「エラーの排除」という冷徹な論理だけが宿っている。


「アルス……! 逃げ……ろ……。私の、魔力が……吸い尽くされて……っ!」


 リリスが、自身の漆黒の翼を抱きしめるようにして蹲っていた。魔王軍幹部としての強大な魔力さえも、伊集院のシステムにとっては「効率的な燃料」に過ぎない。彼女の影は薄く引き延ばされ、空のグリッドへと吸い込まれていく。


「……伊集院さん。君は、死んでまで……こんな寂しい世界を作りたかったの?」


 アルスは、震える膝を叩き、ゆっくりと立ち上がった。

 彼の周囲だけは、微かな黄金の光が「侵食」を食い止めていた。それは彼がこれまでの旅で調合し、自らの体に馴染ませてきた無数の霊薬の残滓。だが、それも時間の問題だった。一人の調合師が持つマナの総量など、大陸全土を飲み込むシステムの前では、大海の一滴に等しい。


「――警告。個体識別:アルス。異常数値バグを確認。即時削除デリートを推奨します」


 空から降り注ぐのは、数千、数万の声を合成した伊集院徹の「残響」。

 鋼鉄の聖騎士たちが一斉に跳躍した。音速を超える一撃が、アルスの眉間に迫る。


「……させない。……僕が、この世界の『痛み』を、なかったことにはさせない!」


 アルスは、腰のポーチから「空のフラスコ」を一つ、天に掲げた。

 中身は何もない。だが、アルスが【真・調合】の術式を編み始めた瞬間、周囲の空気が激しく渦を巻き始めた。


「リリス、セレナ様! 僕に……君たちの『抗う意志』を預けて! 魔力じゃない、君たちが生きてきた、その泥臭い感情を!」


 アルスの叫びに、リリスが歯を食いしばり、消えゆく影の中から最後の一滴を振り絞った。セレナもまた、涙を流しながら、公国皇女としての誇りを、その祈りへと変えた。

 二人の「心」が、アルスのフラスコへと吸い込まれていく。


 ドォォォォン!!

 迫りくる聖騎士の刃が、アルスの目の前で「透明な壁」に阻まれた。

 それは魔力の壁ではない。アルスが周囲の空気(酸素、窒素、そして漂うマナの塵)を瞬時に調合し、物理定数を一時的に書き換えた『瞬間硬化大気』の盾だ。


「……伊集院さんが世界をシステムにしたなら。……僕は、この大陸の『マナの流れ』そのものを触媒にして、世界規模の『中和剤』を調合するしかない」


 アルスの瞳が、黄金色に発火した。

 これまでの旅で、彼は多くの土地を巡り、多くの病を治してきた。

 氷獄の地の冷たさ、公国の緑の息吹、魔界の重苦しい闇。

 それらすべての土地の「記憶」を、アルスは自身の脳内で仮想の調合釜として展開した。


 一人の人間が扱える情報の限界を、アルスは超えようとしていた。

 彼の耳、目、鼻から、負荷に耐えかねた鮮血が吹き出す。だが、アルスの手は止まらない。


「――【大陸広域・概念調合:エイドス・レメディ】……!!」


 アルスが掲げたフラスコが、耐えきれずに砕け散った。

 そこから溢れ出したのは、光ではない。

 それは、目に見えない「波紋」だった。


 波紋はリーフ村を超え、公国の平原を駆け抜け、王都の城壁を透過し、大陸全土へと広がっていく。

 波紋が触れた場所では、黒いグリッドの明滅が一時的に停止した。

 機械化された聖騎士たちの動きが鈍り、彼らの脳内に、アルスが共有した「命の生々しさ」が無理やり流し込まれる。


「……ぐ、ああああ……! 俺は……俺は……」


 先ほどまで「部品」だった騎士の一人が、自分の鋼鉄の手を見つめ、嘔吐した。

 人間としての感覚の復元。それは同時に、機械化されていた間の「無感情な殺戮」への恐怖を呼び覚ます、あまりにも過酷な荒僚(治療)だった。


「――エラー。大規模な論理矛盾を感知。……修復プログラム、バージョン2.0を起動。……大陸全土を、強制的に『スリープモード』へ移行させます」


 伊集院のシステムが、アルスの抵抗を予期していたかのように、さらなる絶望を突きつける。

 空の黒いグリッドが、今度は「白」く発光し始めた。

 それは、生命活動そのものを一時停止させる「強制休眠」の光。この光が大陸を覆えば、人々は死ぬこともできず、ただ永遠に覚めない夢の中で、システムのパーツとして眠り続けることになる。


「……そうは、させないよ」


 アルスは、血に染まった顔で、さらに一歩前に出た。

 彼の足元には、伊集院が遺した「壊れたスマートフォン」が転がっている。


「伊集院さん。……君のシステムは完璧かもしれない。……君が忘れていたものが一つだけあるんだ」


 アルスは、自分の心臓に手を当てた。

 バクバクと、早鐘のように打つ鼓動。

 

「……それは、僕たちが『明日を怖がることができる』ってことだ」


 アルスは、自らの命そのものを「最後の材料」として、調合の最終段階に入った。

 大陸全土を襲う「白い眠り」に対し、アルスが用意したのは、あまりにも皮肉で、そしてあまりにも彼らしい、ある『特効薬』だった。


 リーフ村の空に、黄金と白の光が激突し、火花を散らす。

 第4章、最終決戦の第2幕。

 一人の調合師の命を懸けた、全人類への「目覚まし時計」の調合が始まった。

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