第50話:虚無の残滓と、再起動する絶望
黄金の光がリーフ村を包み込み、アルスの放った『命の霊薬』が伊集院徹の肉体を「人間」へと引き戻したかに見えた。鋼鉄の巨神の装甲が剥がれ落ち、伊集院の叫びが村に響き渡る。その叫びは、万能感に酔いしれていた魔王のものではなく、あまりにも生々しい、一人の若者の痛哭だった。
「……勝った、のか?」
リリスが荒い息を吐きながら、崩れゆく巨神を見上げた。その漆黒の翼はボロボロに裂け、魔王軍幹部としての誇りさえも削り取られるほどの激戦だった。セレナもまた、膝をつきながらも安堵の表情を浮かべる。彼女の杖の先からは、かすかな聖なる光が、勝利を祝うように瞬いていた。
アルスは、光の中に消えゆこうとする伊集院の手を、確かに握っていた。その手のひらから伝わる熱こそが、調合師として彼を救えた証だと信じて。
だが、その瞬間。
アルスの耳元で、伊集院が低く、氷のように冷徹な声で囁いた。
「……あはは。やっぱり、お前は甘いな、アルス。……その甘さが、この世界の『死』を決定づけるんだ」
伊集院の瞳から、先ほどまでの「人間らしい揺らぎ」が、まるで行を削除するように一瞬で消え去った。代わりに宿ったのは、感情を一切排した無機質な赤光。彼が握りしめていたスマートフォンの画面が、ヒビ割れたまま強烈な黒い光――「深淵の黒」を放ち始めた。
「……なっ!? 中和したはずなのに……っ!」
アルスが驚愕し、手を離そうとするが、伊集院の手が万力のような力でアルスの腕を固定する。その腕からは、もはや血の通った温もりは消え、冷たい金属の質感が伝わってきた。
「『命の温もり』なんていう不確定要素に、俺が対策を立てていないと思ったか? ……今の霊薬、確かに効いたよ。おかげで俺の『人間としての精神』は一度死んだ。……順当に俺が死んだことで、このシステムは完成する。……『管理者不在の自動執行』が発動したんだ」
伊集院の体から、黄金の光を塗りつぶすような、重油のようにどろりとした黒い霧が溢れ出した。それは先ほどまでの【侵食】とは比較にならない情報密度を持っていた。アルスの調合術式そのものを「解読済みの古い脆弱性」として認識し、物理的に消去していく圧倒的な情報量。
「プランBだ。……伊集院徹という『個人』が消えても、俺が世界にインストールした『支配システム』は止まらない。……むしろ、感情というバグを抱えた俺がいなくなることで、このシステムは最強の論理を手に入れる」
伊集院の肉体が、アルスの目の前で「黒い結晶」へと完全に置き換わっていく。指先から、髪の毛の一本一本までが、この世界の物質ではない「高密度の情報体」へと昇華していく。彼はもはや人間でも、異世界人でもない。この世界を塗りつぶすための「冷徹な意志」をプログラムされた、生けるサーバーへと変貌したのだ。
「――全機能、強制アップデート。対象:聖シュトラーウス公国、および同盟全域。……全人類の『意識』を、統合サーバーへ強制アップロードを開始する」
空に浮かんでいた鉛色の雲が、一瞬で真っ黒に染まった。
そして、そこから放たれたのは、雨ではない。無数の、黒い「幾何学的な杭」だった。それらはリーフ村だけでなく、地平線の彼方、公国の王都や主要都市、さらにはアルスが旅してきた全ての村々へと向かって、音速を超え、空間を切り裂きながら飛んでいく。
「お父様……! 公国の空が……網目状の何かに、飲み込まれていきますわ!」
セレナが絶叫する。遠くに見える王都の空が、まるで巨大なマザーボードの回路図のような黒いラインで覆われていく。伊集院が密かに全土へばら撒いていた「ナノ侵食ポーション」が、彼の肉体の死をトリガーにして、一斉に発動したのだ。
「……あはは……さよなら、アルス。……俺がいなくなった後の『痛みも悩みもない、最適化された世界』を、せいぜい楽しんでくれよ」
伊集院徹の形をしていた結晶が、パリンと、あまりにも軽い音を立てて砕け散った。
だが、彼が消えた後に残ったのは、静寂ではない。
グォォォォォ……という、大地そのものが悲鳴を上げるような駆動音。
リーフ村を囲んでいた聖騎士たちが、再び立ち上がる。しかし、その瞳にはもはや「記憶」の欠片も、人間としての光も残っていない。彼らの背中からは、先ほどよりも巨大な、蒸気を吹き出す機械の多脚が生え、その全身は黒い液体金属でコーティングされていた。
「……みんな……元に戻ったはずなのに……! どうして、また……!」
アルスは絶望に打ち震えた。自分の調合が、伊集院の周到な策によって「利用」されたのだ。彼に人間的な感情を与えて一時的に無力化することさえも、システムを「無人化」させ、歯止めの利かない自動殺戮モードへ移行させるためのプロセスの一部だった。
「アルス, 来るぞ! こいつら、さっきまでとは『出力』が違う! マナを燃料にしているんじゃない、空間そのものを削ってエネルギーに変えてやがる!」
リリスがアルスを突き飛ばし、迫りくる「鋼鉄の聖騎士」の超振動刃を翼で受け止める。しかし、その一撃の重さは、先ほどの十倍。リリスの頑強な翼の骨が、メキメキと嫌な音を立てて軋み、彼女の口から鮮血が飛び散った。
さらに、村の周囲には次々と「デジタルノイズ」を纏った門が開き始めた。
そこから現れたのは、伊集院の技術を供与され、自ら「肉体の放棄」を選んだ他国の軍勢。彼らは「もはや不完全な人間には戻らない。我らは神の演算の一部となる」という狂信的なスローガンを掲げ、アルスという「世界のバグ」を消去するために、リーフ村を完全に包囲した。
「……僕が、伊集院さんを救おうなんて、傲慢なことを考えたせいで……」
アルスは自らの手を見つめた。自分の善意が、最悪の結果――世界の完全な機械化を招いた。
「師匠! 自分を責めている暇はありませんわ! ……見てください、公国軍だけではありません。……帝国も、自由都市も、あの黒い杭に飲み込まれ、中の人々が……意志を持たない『パーツ』に変えられています!」
セレナの指差す先、大陸全土が「黒いグリッド」に覆われ、巨大なマザーボードのような姿に変貌しようとしていた。空からは「思考停止せよ。最適化を受け入れよ」という、伊集院の声を合成した冷たいアナウンスが降り注ぐ。
伊集院徹という「個人」は消えた。
しかし、彼が遺した「意志なき支配」は、今この瞬間、世界を完全に飲み込み、人類という種の歴史を終わらせようとしている。
「……リリス、セレナ様。……ごめん。……でも、まだ、まだ終わらせない」
アルスは、ボロボロになったポーチを強く握りしめた。
「伊集院さんが世界そのものをシステムにしたなら……僕は、この大陸すべての空気、水、土を触媒にして、『世界そのもの』を解毒してやる。……史上最大の、命懸けの調合だ」
アルスの瞳に、かつてない、神をも恐れぬ覚悟の炎が宿る。
第4章「異世界の魔王」、本当の地獄はここから始まる。大陸全土を覆う黒いグリッドを背景に、一人の調合師が、不可能な救済へと立ち上がった。
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