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第52話:絶望への特効薬、目覚める世界


 天を覆う黒いグリッドが、突如として眩い「白」へと反転した。それは伊集院徹のシステムが放つ、全生命活動の強制停止信号――『スリープモード』への移行だった。

 光が触れた場所から、鳥は羽ばたきを止め、風に揺れていた木々は石像のように凝固し、逃げ惑う人々はその場に糸の切れた人形のように崩れ落ちていく。死ではない。だが、二度と自らの意志で目覚めることのない、永遠の停滞。


「……あ……づ、あ……」


 セレナの瞳から光が消え、その身体がゆっくりと後ろへ倒れ込む。リリスもまた、牙を剥き出しにしたまま、その荒々しい鼓動が極限まで引き延ばされ、静止しようとしていた。


 リーフ村の広場。ただ一人、黄金の残光に守られたアルスだけが、その「白い静寂」の中で立ち尽くしていた。


「――警告。個体識別:アルス。生存維持時間を大幅に超過。……全生命維持装置、停止プロセスを開始します」


 空から降る無機質な声。伊集院の遺した「意志なき管理者」は、アルスという最後のエラーを消去するために、村の全エネルギーを一点に集中させ始めた。


「……伊集院さん。君の作った世界は、確かに静かで、争いもなくて……美しいかもしれないね」


 アルスは、血に染まった自分の手を見つめた。

 指先は震え、視界は端から白く染まり始めている。システムによる「存在の消去」が、彼の細胞一つ一つを分解しようとしていた。


「でも……。僕たちは、そんな『完成された絵画』になりたいわけじゃないんだ」


 アルスは、ボロボロになったポーチの底から、一本の小さな、何の飾りもない透明な小瓶を取り出した。

 中に入っているのは、薬液ですらない。それは、アルスが旅の途中で集めてきた、ただの「日常の音」と「体温」を魔力的に固定しただけの、未完成の試作品。


 かつて、悪夢にうなされる子供のために作った『目覚めの香油』。

 かつて、戦いに疲れたレオンのために調合しようとして、捨てられた『弱音を吐くための薬』。

 それら「強さ」とは無縁の、弱くて、不完全な人間のためのレシピを、アルスは今、大陸全土を対象にした【概念調合】のコアに据えた。


「――リリス、セレナ様……。ごめん。少しだけ、痛い思いをさせるよ」


 アルスは自分の胸元、心臓の直上に右手を当てた。

 彼がこれまで溜め込んできた全ての魔力、そして「アルス」という存在を形作っている魂の記録を、強制的にその小瓶へと流し込む。

 

 バキバキと、アルスの骨が軋む音が静寂に響く。

 一人の人間が、大陸全土のマナを逆流させ、一つの小瓶に封じ込めるなど、神話の時代でもあり得なかった暴挙。アルスの皮膚からは黄金の血が噴き出し、その髪は一瞬で白銀へと変わっていく。


「……この薬の名前は……『明日のための不安トモロウ・フィアー』だ!!」


 アルスが小瓶を地面に叩きつけた。

 パリン、という小さな音が、白い静寂を切り裂いた。


 次の瞬間、リーフ村を中心に、どす黒い、それでいて温かい「泥のような波動」が爆発的に広がった。

 それは伊集院の「白」を塗りつぶす、あまりにも人間臭い、不快で、けれど愛おしい感情の奔流。


「……う、あ……あああああッ!!」


 最初に声を上げたのは、眠りについていた聖騎士の一人だった。

 彼は「白い眠り」の中で見ていた完璧な夢を、アルスの薬によって強制的に引き裂かれた。脳内に雪崩れ込んできたのは、明日への不安、今日の失敗、誰かに嫌われる恐怖、そして「死にたくない」という原始的な生存本能。


 波紋は公国全土へと伝播していく。

 眠らされていた王都の民たちが、一斉に飛び起きた。

 彼らは、システムが与えてくれる平穏よりも、自分たちの足で泥を蹴り、悩み、苦しむ「自由」を、アルスの調合によって思い出させられたのだ。


「――エラー。致命的なバグを検知。……全人類の精神状態が『不安定』へと固定。……演算不能。……再起動を試みます。……失敗。……失敗。……失敗」


 空のグリッドが激しく点滅し、火花を散らす。

 伊集院のシステムは「論理的な幸福」を管理することはできても、アルスがバラ撒いた「非論理的な生存への執着」を処理するプログラムを持っていなかった。


「……はぁ、はぁ……。アルス……お前、なんて……えげつない薬を……」


 リリスが、激しい動悸に襲われながらも目を覚ました。彼女の瞳には、死の恐怖と、それ以上に「アルスを失いたくない」という強い意志が戻っていた。


「師匠……! 身体が、熱いですわ……。怖くて、震えが止まりません……。でも、これが……私たちが生きている証拠なんですのね!」


 セレナがアルスのもとへ駆け寄る。


 だが、アルスの姿は、陽炎のように透き通っていた。

 大陸全土を「目覚めさせる」ための代償。それは、調合師アルスという個人の存在を、世界の理から切り離すことに他ならなかった。


「……あはは。成功だね。……みんな、目が覚めたみたいだ」


 アルスは、崩れ落ちる体をセレナに支えられながら、力なく微笑んだ。

 彼の視界の先、空を覆っていた黒いグリッドが、内側からボロボロと剥がれ落ちり落ちていく。


 伊集院徹の遺した「意志なき神」は、今、一人の調合師が放った「弱さ」という名の毒によって、その機能を完全に停止しようとしていた。


「――最後……の通告。個体識別:アルス。……お前は、本当に……非効率な……」


 空から降る声が、初めて伊集院徹本人の声に戻った気がした。

 それは呪いではなく、どこか清々しい諦念を含んだ、短い別れの言葉。


 光が収まり、リーフ村に夕暮れの柔らかな風が吹き抜ける。

 だが、そこにはもう、伊集院の影も、そしてアルスの確かな肉体も、残されてはいなかった。


「……師匠? 師匠! どこですの!? 嫌ですわ、こんなの……! まだ、何も恩返しを……!」


 セレナの悲鳴が、暮れゆく村に響き渡る。

 リリスが虚空を掴もうとして、その手がただの空気を切る。


 世界は救われた。

 だが、その代償は、あまりにも残酷なものだった。

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