第40話:極寒の行軍と、氷の精霊ポーション
北へ進むにつれ、世界から色が失われていった。
公国の豊かな緑は、いつしか灰色の岩肌と、地を這うような永久凍土へと姿を変えていた。
そこは『氷獄の荒野』。吐く息は瞬時に凍りつき、魔力を持たない者であれば数分で命を落とすと言われる、大陸で最も過酷な領域だ。
「……さすがに、少し肌寒いね」
アルスは、真っ白な吹雪の中で、いつもと変わらない薄手のエプロン姿で呟いた。
彼の周囲だけは、目に見えない黄金の温もりが膜のように覆っている。アルスが昨日、即興で調合した『自律型・恒温軟膏』が、周囲の冷気を熱エネルギーへと変換しているのだ。
「……少し、どころではありませんわ。魔導士の障壁が、寒さで凍りついてひび割れるなんて、聞いたこともありませんもの」
セレナは、何枚もの防寒具を重ね着した上から、アルスの軟膏を塗った外套を羽織っている。それでも、肌を刺すような冷気に歯を鳴らしていた。
「フン、弱音を吐くな。アルスを見ろ、あいつは鼻歌を歌いながら雪道を歩いているぞ」
リリスは魔族の強靭な肉体と、アルスの特製ポーションのおかげで平然としているが、その瞳は鋭く前方を睨んでいた。
「……アルス、止まれ。来るぞ」
リリスの警告と同時に、雪原が大きく盛り上がった。
現れたのは、この地に君臨する最上位の精霊――『氷の古代精霊』だ。
高さ十メートルを超える半透明の巨体。その一振りで山を凍らせるという絶大な冷気を纏い、侵入者であるアルスたちに咆哮を上げた。
「……ああ、ダメだよ。そんなに怒っちゃ。そんなに冷気を放出しすぎたら、君自身の『核』が凍りついて砕けちゃうよ」
アルスは、襲いかかってくる精霊を見上げ、心配そうに眉を下げた。
「師匠、何を!? あれは自然そのものの化身ですわ! 言葉など届きません!」
セレナが杖を構え、迎撃の呪文を唱えようとした。しかし、アルスはそれを手で制し、ポーチから一瓶の、深い紅色の液体を取り出した。
「これは『灼熱』のポーションじゃないんだ。……名付けて『魂のぬくもり・ホットミルク味』。冷え切った心を解かすためのものだよ」
アルスは精霊が振り下ろした巨大な氷の腕を、吸い込まれるような足捌きで回避すると、その足元にポーションを優しく投げつけた。
パリン、という音が雪原に響く。
瞬間、爆発的な熱が広がる……わけではなかった。
ポーションから溢れ出したのは、夕暮れ時の陽光のような、どこか懐かしく温かな「光の湯気」だった。
その湯気が精霊の巨体を包み込むと、凶暴に荒れ狂っていた冷気が、一瞬で穏やかな微風へと変わった。
「……あ……ああ……」
精霊の咆哮が、安堵のため息のような音に変わる。
鋭く尖っていた氷の角は丸みを帯び、その透明な体の中に、ポーションの成分が「ぬくもり」として定着していく。精霊は、まるで深い眠りから覚めた子供のように、アルスの前で小さく縮こまり、静かに跪いた。
「……なっ……精霊の属性を、一瞬で『中和』したというのですか? 破壊するのではなく、その存在意義を保ったまま、性質だけを……」
セレナは杖を落としそうになりながら、その光景を呆然と見守った。
「よかった。君、マナの循環が逆流して、ずっと苦しかったんだね」
アルスは精霊の冷たい頬に手を触れ、優しく微笑んだ。
精霊はアルスの手にすり寄るように甘えると、そのまま雪の中に溶けるようにして姿を消した。後に残されたのは、極寒の地にはあり得ない、一輪の「氷の花」の結晶だった。
「……これが、パラケルスの言っていた『理の再構築』への、僕なりの答えかな」
アルスはその結晶を拾い上げ、リリスに手渡した。
「リリス。これ、夜のキャンプで焚き火の代わりに使ってね。すごく穏やかなマナが出るから、ぐっすり眠れるよ」
「……お前という奴は。……神の化身とも言える精霊を、寝具代わりに使いおって」
リリスは呆れながらも、その結晶から伝わる不思議な温かさに、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
一行が再び歩き出すと、吹雪は不思議と彼らを避けるように道を開け始めた。
世界の果てにある「聖域」まで、あとわずか。
アルスの調合は、もはや自然界の法則さえも味方につけ、人類未踏の領域へと踏み込んでいく。
「……待っていろ、パラケルス。……世界は、君が思うよりずっと、温かくなれるんだから」
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