第37話:公国の危機、忍び寄る影
白銀の馬車が、霧の立ち込める街道を猛烈な勢いで突き進んでいた。
普段ならば数日はかかる聖シュトラーウス公国までの距離を、リリスが放つ魔力による加速と、アルスが馬たちの蹄に塗った「大地疾走の軟膏」が、わずか半日にまで短縮していた。
「……霧が深いですね。それに、この匂い……」
アルスは馬車の窓から外を覗き、顔を曇らせた。
公国の領土に入った途端、空気が変わったのだ。それは単なる気象の変化ではない。大気中のマナが凝固し、何者かの意志によって「淀んでいる」特有の気配だった。
「……ええ、公国の聖域結界は、本来なら邪悪な霧など寄せ付けないはずですわ。それなのに、これほどの密度……」
セレナが祈るように胸元のペンダントを握りしめる。
彼女の故郷である公国は、信仰と魔導の国だ。その中心地である王都シュトラーウスは、大陸で最も清浄な場所とされていた。それが今、不気味な影に覆われようとしている。
「アルス、前方に反応だ。……どうやら、大人しく通してくれる気はないらしいな」
御者台に座っていたリリスが、鋭い声を出した。
霧の向こうから、カシャカシャと不気味な金属音が響く。現れたのは、公国の国境を守るはずの「白銀騎士団」の兵士たちだった。だが、彼らの様子は明らかにおかしい。鎧は錆びつき、兜の隙間からは生気のない虚ろな瞳が覗いている。
「止まりなさい! 私は第一皇女、セレナ・フォン・シュトラーウスです! 道を開けなさい!」
セレナが馬車から身を乗り出して叫ぶが、騎士たちは応えない。それどころか、錆びた剣を抜き放ち、唸り声を上げながら馬車へと襲いかかってきた。
「……ダメだ、セレナ様。彼らは操られているんじゃない。……『眠っている』んだ」
アルスは瞬時に彼らの状態を見抜いた。
彼らの精神は深い眠りの中にあり、肉体だけが外側の「影」によって強制的に動かされている。パラケルスの言っていた『理の再構築』――生者を眠らせ、死者のように扱う呪いが、すでにこの地に蔓延していた。
「リリス、彼らを傷つけずに無力化できる?」
「面倒な注文だが……お前の頼みなら仕方ない!」
リリスが馬車から跳躍し、空中で漆黒の翼を広げた。彼女が指を弾くと、影の触手が騎士たちの足を払い、次々と地面に組み伏せていく。
その隙に、アルスは馬車の中から新しく作った「星空のポーション」を霧吹きに詰め、外の空気に散布した。
「……届け!」
黄金と銀の光が混ざり合った霧が、騎士たちを包み込む。
すると、彼らを動かしていた不気味な影が、アルスのポーションに触れた瞬間に「蒸発」するように消えていった。
「……う、うう……。私は、一体何を……」
正気に戻った騎士たちが、困惑したようにその場にへたり込む。
「……すごい。……精神に干渉する影の呪いを、物理的な散布だけで中和してしまうなんて」
セレナが驚愕の声を漏らす。だが、アルスの表情は晴れない。
「……まだ、本当の『影』はこれじゃない。もっと深いところに、大きな淀みがあるんだ」
一行がようやく辿り着いた公国の王都は、静寂に包まれていた。
普段なら数万の人々が行き交う大通りには、誰一人として動いている者がいない。市場の商人も、街角の子供も、すべての人が立ったまま、あるいは座り込んだまま、深い眠りに落ちていた。
王宮の入り口では、公国の最高戦力である聖魔導師たちが、自分たちに「拒絶」の結界を張りながら、辛うじて意識を保っていた。
「……セレナ……様……。ようやく……戻られましたか……」
宰相の老魔導師が、杖を支えにしながら膝をつく。その肌は土色に変色し、影の侵食が心臓まで達しようとしていた。
「父上は!? 国王陛下はどうなったのですか!」
「……玉座の間で……眠られたまま……。……何者かが……理を……書き換えたのです……。……『この国に生きる者は、死ぬまで夢を見るべし』と……」
その時、王宮の尖塔から、高笑いが響き渡った。
見上げれば、そこにはパラケルスの姿があった。いや、それはパラケルスの姿を模した「影の残像」だった。
「……ようこそ、アルス。私の『新しい理』へ。……救済の聖者よ、お前はこの国すべての人々を一人ずつ治療して回るつもりか? その間に、彼らの魂は夢の中で摩耗し、消えてなくなるぞ」
影のパラケルスは、巨大な砂時計を取り出した。
落ちているのは砂ではなく、公国の人々の「命の輝き」だ。
「この砂が落ちきる前に、私の『答え』を書き換えてみせろ。……さもなくば、この国は私の傑作、夢想の墓場となるだろう」
アルスは、静かに拳を握りしめた。
救済とは、単に病を治すことではない。
踏みにじられた人々の「意志」を取り戻し、狂った世界の法則を正すこと。
「……リリス、セレナ様。僕を、玉座の間の真上まで連れて行って。……公国全部を、一度に叩き起こす『目覚まし薬』を作るから」
アルスの瞳が、かつてないほど激しく黄金に燃え上がる。
大陸最大の国家、公国の命運を賭けた、史上最大の「広域調合」が始まろうとしていた。
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