第35話:魔神の残り香と、古の錬金術師
リーフ村に爽やかな風が吹き抜ける午後。アルスの工房では、セレナが一心不乱に羊皮紙へペンを走らせ、リリスが不服そうに薬草の選別を行っていた。
「……なるほど。アルス師匠の配合は、植物の『成分』ではなく『感情』……いえ、生存本能に直接働きかけているのですわね。これは従来の魔導理論を根底から覆す大発見ですわ!」
「フン、小難しいことを。アルスが『これがいい』と言ったからいいのだ。理屈など後からついてくるものだろう」
二人のやり取りを後ろに、アルスは新しく届いた「珍しい鉱石」の鑑定を行っていた。それは、辺境伯が北の山脈で見つけたという、赤黒く脈打つ奇妙な石だった。
だが、その石に触れた瞬間、アルスの指先に焼けるような痛みが走った。
「……っ!? これは……」
アルスの【真・調合】の感覚が、激しい拒絶反応を示す。
それはかつてレオンを蝕んでいた「魔神の力」の波動。しかし、レオンの持っていたものよりも遥かに古く、そして濃密な『悪意』がそこに宿っていた。
「アルス、どうした!?」
異変を察知したリリスが瞬時にアルスの傍らに寄り、その手を握る。
「……リリス、この石。レオンが持っていたものと同じ気配がするんだ。でも、もっと……なんて言えばいいのかな。意思を持っているみたいで」
アルスが石を天秤に乗せると、石から黒い霧が立ち昇り、工房の空気を一瞬で凍りつかせた。
「これは……『魔神の触媒』!? なぜこんなものが人里に……」
セレナが顔を青くして叫んだ。
「師匠、この石は数百年前、世界を滅ぼしかけた『古の錬金術師』が魔神を召喚するために作り出した禁忌の品ですわ。歴史の闇に葬られたはずの……」
その時、工房の入り口に、一人の老人が立っていた。
煤けたローブを纏い、顔の半分を仮面で覆ったその老人は、音もなくアルスの背後に佇んでいた。リリスの探知を潜り抜けるほどの、異様な気配の遮断術だ。
「……ほう。今の時代にも、私の『落とし物』に気づく者がいたとはな」
老人の声は、枯れ葉が擦れ合うような乾いた音だった。
「なっ……何奴だ! いつの間に!」
リリスが鋭い爪を剥き出しにして老人に飛びかかろうとするが、老人が指をパチンと鳴らすと、リリスの周囲の時間が止まったかのように、彼女の動きが空中で固定された。
「リリス!?」
「案ずるな、若き調合師よ。私はただ、私の『作品』を返してもらいに来ただけだ」
老人はアルスの手元にある黒い石を見つめ、仮面の奥で目を細めた。
「私はパラケルス。……かつてこの世界に『調合』の概念をもたらし、そして神の領域に触れようとして、すべてを失った男だ」
「パラケルス……!? 伝説の、錬金術の祖……!?」
セレナが膝を震わせて呟く。歴史書の中にしか存在しないはずの名前。
「君が……アルスか。王都を腐らせ、魔王を治療し、そして魔神の器となった哀れな勇者を浄化したという、今代の『聖者』。……お前の調合を見させてもらったが、実に見事だ。だが……お前の調合には『核』がない」
パラケルスは一歩、また一歩とアルスに近づく。
「お前は命を救い、癒やすことにしかその力を使っていない。それは調合の半分でしかないのだよ。真の調合とは……世界の理を壊し、再構築することだ。この石を使ってな」
老人が手をかざすと、アルスの机にあった黒い石が激しく共鳴し、工房内のポーション瓶が次々と粉砕されていく。
「やめてください! そんなことのために、この力があるんじゃない!」
アルスは割れた瓶から溢れ出した薬液――先ほどリリスのために作った「精神安定ポーション」を、咄嗟に【真・調合】で練り上げた。
アルスの手の中で、イチゴの香りのするポーションが眩い黄金の光に変わる。
「……えいっ!」
アルスがその光をパラケルスへ向けて放つと、老人の『静止の術』が霧散し、リリスが自由を取り戻した。
「……ほう。イチゴ味のポーションで私の高位魔術を相殺したか。……く、くくく! 面白い! 実におかしい!」
パラケルスは腹を抱えて笑い、そのまま黒い霧となって消えていった。
「アルス。いずれお前は気づくだろう。救うだけでは足りない時が来ることを。その時まで、その石は預けておこう。……お前がそれをどう『調理』するか、楽しみにしているぞ」
老人の気配が完全に消え、工房に沈黙が戻った。
アルスの手元には、依然として不気味に脈打つ黒い石が残されていた。
「……アルス。今の老人は、ただ者ではない。私の魔力さえも一瞬で封じるなど、魔王ゼノスでも不可能だ」
リリスが悔しげに拳を握る。
「師匠……。公国の禁書庫には、パラケルスは『神になろうとして魔神の呪いを受けた』と記されていますわ。……彼が動き出したということは、この大陸に、王都の崩壊よりも凄まじい危機が迫っているのかもしれません」
アルスは、黒い石をじっと見つめた。
魔神の残り香。そして、伝説の錬金術師の出現。
平和な村での暮らしは、どうやら新たな局面へと引きずり込まれようとしていた。
「……大丈夫だよ、二人とも。どんな石でも、どんな毒でも……正しく調合すれば、きっと何かの役に立つはずだから」
アルスは震える手を隠すように、石を柔らかな布で包んだ。
救済の聖者と、破壊の始祖。
二人の調合師の、目に見えない戦いの火蓋が切って落とされた。
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