閑話:完璧な皇女の挫折――「正解」を塗り替えた少年
聖シュトラーウス公国の第一皇女、セレナ・フォン・シュトラーウス。
彼女の人生には、常に「正解」があった。
三歳で文字を読み、五歳で初級魔導を習得。十歳になる頃には、王立アカデミーの教授たちさえ凌駕する理論を構築し、「公国の至宝」とまで称えられた彼女にとって、世界は数式と魔導式で記述できる秩序ある場所だった。
「……私の理論に間違いはありません。この術式で、公国の汚染された水源は完全に浄化されるはずです」
しかし、現実は非情だった。
公国の水源を蝕む「魔神の澱み」に対し、彼女が心血を注いで編み出した最高精度の浄化陣は、虚しくも黒い霧に飲み込まれ、霧散した。
「なぜ……? 計算は完璧でした。マナの波長も、属性の反発係数も、すべて『正解』の範疇だったはずなのに!」
自席に戻った彼女は、震える手で何度も羊皮紙を書き直した。
公国の威信を背負い、民の期待を一身に受けてきた。挫折など、許されるはずがない。けれど、彼女が積み上げてきた「正解」の積み木は、底の知れない悪意の前で音を立てて崩れ去ろうとしていた。
「……何か、私の知らない理があるの? 理論を超えた、未知の……」
そんな折、彼女の耳に届いたのは、辺境の村に「どんな不治の病も、どんな呪いも一瞬で溶かす調合師がいる」という、到底信じがたい噂だった。
学術を重んじる彼女にとって、それは無知な民衆が流す迷信の類にしか聞こえなかった。
「確かめてみせます。理論を無視した奇跡など、この世に存在するはずがありませんから」
護衛を連れ、お忍びで訪れたリーフ村。
そこで彼女が目にしたのは、豪華な実験器具でも、複雑な魔法陣でもなかった。
村の小さな工房で、鼻歌を歌いながら、ボロボロの木べらで鍋をかき混ぜる一人の少年――アルスの姿だった。
「……何をしているのですか? そんな雑な混ぜ方では、成分が分離してマナが散逸してしまいますわ。……っ!? それ、まさか『魔神の触媒』ですの!? 触れてはいけません、爆発しますわよ!」
セレナが悲鳴に近い声を上げた瞬間。
アルスは「え? 大丈夫だよ」と笑いながら、その真っ黒な石をポイと鍋に放り込んだ。
セレナの脳内では、最悪の爆発シミュレーションが即座に展開された。
だが、現実はその予想を裏切った。
鍋から溢れ出したのは、彼女が一生かけても辿り着けないほど純粋で、慈愛に満ちた黄金の光だった。
「……あ、あ……」
完成したのは、一瓶のありふれた透明な液体。
しかし、セレナの魔導眼には見えていた。その一滴の中には、既存の魔導理論では説明不可能な、万象を肯定するような高密度のマナが完璧な調和を保って存在していることを。
「……どうやって。どのような理論を組めば、こんな……」
「理論? うーん、僕はただ『みんなが元気に笑ってるといいな』って思いながら混ぜただけだよ」
アルスのその一言が、セレナのプライドという名の城壁を粉々に粉砕した。
彼女が数十年かけて積み上げてきた理論は、少年の「想い」という、最も不確かで最も強大な力に一瞬で追い抜かれたのだ。
膝から崩れ落ちるセレナ。
負けた。完膚なきまでに。自分の知る「正解」は、この少年の前ではただの記号に過ぎなかった。
(……ああ。私は、何も知らなかった)
けれど、不思議と心は軽かった。
自分を縛っていた「完璧」という呪縛が解け、目の前には、理論の先にある無限の世界が広がっていたから。
「……私を、弟子にしてください。いいえ、雑用でも構いませんわ。……あなたの見ている世界を、どうか私にも教えてくださいまし!」
泥まみれのエプロンをつけた少年に、公国の第一皇女が頭を下げる。
それが、後に「歴史上最も偉大な魔導の夜明け」と呼ばれるようになる、セレナ・フォン・シュトラーウスの、最高に晴れやかな挫折の瞬間だった。
読んで頂きありがとうございます!
この作品を「良かった!」「続きが気になる!」と思ってくださった読者様は
ブックマーク登録や下にある『☆☆☆☆☆』を『★★★★★』に評価して下さると励みになります!




