第30話:朝凪の魔界と、一歩踏み出す背中
一夜が明け、魔界の空には見たこともないほど清澄な夜明けが訪れていた。
アルスが降らせた「浄化の雨」の影響か、どんよりとした紫色の雲は消え去り、そこには人間界のそれよりも深く、吸い込まれるような蒼い空が広がっている。
魔王城の中庭では、辺境伯から派遣された救護隊と、魔王軍の戦士たちが協力して後片付けに追われていた。
かつては敵対していた種族同士が、今は「アルスのポーション」という共通の絆を介して、静かに言葉を交わしている。その光景こそが、この戦いがもたらした最大の収穫かもしれない。
「……アルス。ここにいたのか」
工房のバルコニーで風に当たっていたアルスの背後に、リリスが歩み寄った。彼女の翼は朝日に透け、漆黒の羽が宝石のように輝いている。
「リリス。……うん、少し空気が美味しかったから」
「そうか。……先ほど、魔王ゼノスから伝言があったぞ。『大陸全土の瘴気が引いた。これでお前は、歴史上どの王よりも多くの命を救ったことになる』とな」
アルスは少し照れくさそうに笑い、手元にある空のフラスコを見つめた。
「僕はただ、目の前の毒を取り除きたかっただけだよ。……それより、ゼノの様子はどうかな?」
「……彼女なら、今朝早くに発った。マリアを連れて、王都の生存者を探しに行くそうだ。……『もう一度、自分の足で人生を調合し直したい』と言っていたぞ」
リリスの言葉に、アルスは安堵の溜め息を漏らした。
かつての仲間たちは、それぞれの報いを受け、そして新しい道を歩み始めた。憎しみや後悔を溶かした後に残ったのは、再生へのささやかな希望だった。
***
数日後。アルスは魔王城を離れ、慣れ親しんだリーフ村へと戻る準備を進めていた。
魔王ゼノスからは「魔界の宰相」としての地位を打診されたが、アルスは「僕はやっぱり、静かな村で薬草を育てている方が性に合っています」と笑顔で断った。
村に戻る馬車の列には、ガウルをはじめとする魔王軍の精鋭数名が「護衛兼、農業研修生」として同行することになった。魔族たちが鍬や鎌を持って人間界へ入るという、前代未聞の光景である。
「アルス様! お帰りなさい!」
リーフ村に辿り着くと、村人たちが総出でアルスを出迎えた。
そこにはカスティール辺境伯の姿もあった。彼はアルスの無事を確認すると、その分厚い手で力強くアルスの肩を叩いた。
「アルス殿、見事な働きであった。……君が魔界を救ったことで、我が領地のみならず、この大陸すべての均衡が保たれた。……もはや君を『追放された調合師』などと呼ぶ者は一人もおらん」
「ありがとうございます、辺境伯。……でも、僕はこれからも、ただのアルスとしてここで暮らしたいんです」
アルスの願いは、あの日、雨の王都を後にした時から変わっていなかった。
名声も、権力もいらない。ただ、大切な人たちが笑って過ごせるための、一滴の薬を作ること。
その日の夜。アルスの屋敷には、リリスと二人きりの時間が戻ってきた。
工房には、新しい薬草の香りと、大釜がコトコトと鳴る心地よい音が満ちている。
「アルス。……これから、どうするんだ? 王都は無くなったが、新しい国が興り、またお前の力を欲しがる連中が現れるだろう」
リリスが、温かいハーブティーを飲みながら尋ねた。
「そうだね。……でも、次はもう迷わないよ。……僕は、僕が必要だと思う人のために、僕が作りたいものを作る。……たとえば、リリスがもっともっと長生きして、ずっと綺麗でいられるような、究極の『若返りポーション』とかね」
「……なっ!? お、お前……またさらっととんでもないことを言うな!」
リリスは顔を真っ赤にして、バタバタと翼を羽ばたかせた。
「だが……悪くない。お前が作るものなら、私は喜んで実験台になってやろう」
アルスは窓の外を見上げた。
そこには、かつての絶望的な暗闇はなく、満天の星空が広がっている。
彼が捨てられた場所。彼を拒んだ世界。
けれど、その世界は今、アルスという一人の青年が奏でる「調合」の調べによって、少しずつ、けれど確実に、優しさを取り戻し始めていた。
「さあ、リリス。明日からは忙しくなるよ。難民の人たちのための新しい農薬も作りたいし、ガウルさんたちに魔界での新しい作物の育て方も教えなきゃ」
「ああ、付き合ってやる。……百年でも、二百年でもな」
アルスが【真・調合】を起動させると、工房が黄金のマナに包まれた。
それは、世界を救う武器ではなく、明日を生きるための光。
追放された調合師の物語は、ここで一旦の区切りを迎え――。
そして、世界を癒やす「聖者」としての、果てしない旅路へと繋がっていく。
第2部:『王都の崩壊と再会編』――完
読んで頂きありがとうございます!
この作品を「良かった!」「続きが気になる!」と思ってくださった読者様は
ブックマーク登録や下にある『☆☆☆☆☆』を『★★★★★』に評価して下さると励みになります!




