第23話:魔界の門と、アルスの『非常識な』ポーション
大陸の北端、不毛の荒野にそびえ立つ『次元の門』。
そこは、濃密な魔力が渦巻き、普通の人間であれば近づくだけで精神を病み、肺を焼かれると言われる禁忌の地だ。門の向こう側には、紫色の空と毒の霧が支配する魔界が広がっている。
「……ここが魔界の入り口か。やはり、不快な気配だな」
鋼鉄のガウルが、重厚な兜を揺らして呟いた。彼は使い慣れた門を通り抜けようとしたが、ふと思い出したように足を止めた。
「……いけない。アルス殿、忘れていた。ここは人間にとっては致死量の魔力が漂っている。……リリス様、急ぎ防御魔法の展開を」
「フン、今更何を言っている。アルスは既に準備を終えているぞ」
リリスが呆れたように鼻を鳴らした。
ガウルが振り返ると、そこにはいつものように穏やかな顔をしたアルスが、小さな霧吹きを手にしていた。
「ガウルさん、大丈夫ですよ。さっき、この『環境適応スプレー』を自分とリリスにかけておいたので。……ついでに、ガウルさんたちにもかけてあげますね」
アルスがシュシュッと霧を吹きかけると、ガウルたち魔族の甲冑に、淡い黄金色の光が薄く膜を張った。
「……む、これは……!? なんだ、この清涼感は……!」
ガウルは驚愕に目を見開いた。
魔界の入り口特有の、あの内臓を掻きむしるような圧迫感が一瞬で消え去り、代わりに高原の風に吹かれているような、爽やかな感覚が全身を包み込んだのだ。
「魔界の毒素を中和するどころか、大気中の魔力をろ過して純粋なエネルギーに変換しているのか……!? そんな馬鹿な。これは伝説の聖域結界をポーション一つで再現しているというのか!」
「あはは、そんな大げさなものじゃないですよ。ただの『深呼吸が美味しくなるミスト』ですから」
アルスは屈託のない笑顔で答え、そのまま迷うことなく次元の門へと足を踏み入れた。
人間が防護服もなしに魔界へ入る。それは、本来ならば自殺行為に等しいはずだった。
門を抜けた先。そこは、一面の毒沼と、枯れた黒い木々が広がる魔界の辺境だった。
空には二つの月が浮かび、遠くからは巨大な魔獣の咆哮が地響きとなって伝わってくる。
「……アルス、平気か? 気分が悪くなったらすぐに言え。私がこの領域をまるごと結界で切り取ってやるからな」
リリスが心配そうにアルスの手を握った。
「ありがとう、リリス。でも本当に平気だよ。……それより、リリス。あそこの木、なんだか元気がないね」
アルスが指差したのは、魔界特有の『闇の果実』を実らせるはずの樹木だった。だが、その枝は萎れ、実は腐りかけている。
「……ああ。近頃の魔界は、マナの循環が滞っているのだ。魔王様が調合師を求めたのも、それが理由の一つだろう」
ガウルが沈痛な面持ちで説明した。
「この『枯死病』は、魔界全土に広がっている。作物が育たず、魔族たちも飢えと魔力枯渇に苦しんでいるのだ。王都を攻めたのも、肥沃な土地を求めての苦肉の策であったのだが……」
「……そうだったんだね」
アルスは悲しげに目を細めると、腰のポーチから一瓶の緑色の液体を取り出した。
「ガウルさん。僕、ちょっとだけこの木に『水やり』をしてもいいかな?」
「水やり? ……まあ、構わんが。この枯死病は、高位の浄化魔法でも治せなかったのだぞ」
ガウルが半信半疑で見守る中、アルスは木の根元にポーションを一滴だけ垂らした。
その瞬間、奇跡が起きた。
一滴の液体が地面に触れた途端、黄金の紋様が根を伝って樹木全体に広がった。
カサカサに乾いていた幹が瑞々しく潤い、一瞬で新しい芽が吹き出す。それどころか、腐っていた果実は弾け、見たこともないほど輝く紫色の実をたわわに実らせたのだ。
さらに、木から放たれた清浄なマナが周囲の毒霧を押し返し、周囲数メートルだけが「春の森」のような鮮やかな緑に包まれた。
「……なっ、な……なんだ、これは……!」
ガウルは腰を抜かし、その場に崩れ落ちた。
「枯死病を治しただけではない……大地の属性そのものを上書きしたのか!? このポーション一瓶があれば、魔界が……魔界が楽園に変わってしまうではないか!」
「あはは、ただの栄養剤ですよ。魔界の植物はマナを吸う力が強いみたいだから、少しだけ濃度を濃くしたんです」
アルスはいつもの調子で答え、リリスに向き直った。
「リリス。魔王さんに会う前に、途中の村とかにもこれを配っていこうか。みんな、お腹が空いてるみたいだし」
「……ああ。お前がそうしたいなら、私が道中の魔物をすべて叩き伏せて、お前のために道を切り開こう」
リリスは誇らしげに胸を張り、アルスの隣を歩き出した。
魔界の住人たちが、恐怖の象徴として恐れていたその地に、一人の調合師が「希望」の光を振りまきながら進んでいく。
王都を救えなかった勇者の陰で、追放された男は、今や一つの世界の運命を塗り替えようとしていた。
ガウルは、目の前の背中を見つめながら、確信した。
この男こそが、魔王軍が――いや、この世界が待ち望んでいた「真の救世主」なのだと。
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