第17話:崩壊の前兆と、聖騎士の迷い
王都を囲む高い城壁。かつては鉄壁の守りを誇ったその場所も、今や重苦しい絶望の空気に包まれていた。
視線の先、地平線を埋め尽くさんとする黒い波――数千にも及ぶ魔物の軍勢が、じわじわとその距離を詰めてきている。
「……嘘でしょう。あんな数、まともに相手をしたら半日も持たないわ」
城壁の上で、聖騎士マリアは白銀の剣を握りしめ、震える声で呟いた。
彼女の隣には、魔導杖を杖代わりにして辛うじて立っているゼノの姿がある。
「アルスがいた頃は……彼が事前に魔物の通り道に『忌避香』を焚いてくれていたのよ。だから、私たちは一度にこれほどの数と戦う必要がなかった……」
ゼノの言葉には、もはや隠しようのない後悔が滲んでいた。
かつて彼らは、自分たちの力だけで魔物を退けていると信じて疑わなかった。
勇者の剣が、聖騎士の加護が、魔術師の業火が、すべてを解決しているのだと。
だが、その前提条件となる「戦場を選び、疲弊を癒やし、武具を整える」という気の遠くなるような下準備を、たった一人の調合師が無償で担っていたことに、ようやく気づいたのだ。
「ギルドからは、総員出撃の命が下りましたわ。……でも、今の騎士団にはまともな回復ポーションすら行き渡っていませんのよ? 怪我をすれば即脱落、魔力が尽きれば死……。これでは特攻と同じですわ」
マリアが周囲を見渡すと、出陣を待つ騎士たちの顔はどれも青白く、装備の手入れも行き届いていない。
アルスが自作の研磨液で整えていた剣は、今や刃こぼれが目立ち、盾にはヒビが入ったままだ。
その時、城壁の下から激しい怒鳴り声が聞こえてきた。
「どけ! 俺を出せ! 俺ならあんな雑魚ども、一瞬で消し飛ばせるんだ!」
隔離病棟から抜け出してきたのであろう、レオンだった。
かつての輝きを失い、ボロボロの布を纏っただけの彼は、右腕をだらりと下げたまま、門番の騎士に掴みかかっていた。
「レオン様! お止めください! 今の貴方には、魔力も……」
「うるさい! 俺は勇者だ! アルスさえ、あの無能さえ戻れば、俺はまた最強に戻れるんだ! おい、アルスを連れてこい! 今すぐだ!」
その無惨な光景を見て、マリアは静かに目を逸らした。
彼女の中にあった「勇者への憧れ」という最後の糸が、音を立てて切れた瞬間だった。
「……ゼノ。私は、もう決めましたわ」
「……え?」
「私は、この戦いが終わったら――いえ、終わらなくても、ここを去ります。……アルスさんのところへ、謝りに行かなければなりませんわ」
「マリア……あなた、それは騎士団の離反になるわよ?」
「構いません。……間違った場所に居続けることの方が、私には耐えられませんの」
マリアの瞳には、かつての傲慢さはなく、ただ悲しげな決意だけが宿っていた。
***
一方、王都の混乱など届かぬリーフ村では、アルスが新しい調合の実験に励んでいた。
今回のテーマは「村の井戸水の浄化と活性化」だ。
「アルス、また面白いことをしているな。……それは、ただの石か?」
リリスが覗き込むと、アルスの手の中には、複雑な紋様が刻まれた半透明の石が握られていた。
「これはね、魔力を吸い取って水を綺麗にする『濾過石』の試作品なんだ。これを井戸の底に沈めておくだけで、村のみんなが病気になりにくくなるし、料理も美味しくなるはずだよ」
「ふむ。お前は本当に、戦いとは無縁の平和なことばかりに知恵を絞るな。……だが、そんなお前だからこそ、私はこうして側にいたいと思うのだろうな」
リリスは少し照れくさそうに笑い、アルスの肩に頭を預けた。
アルスは、その温もりを感じながら、ふと南の空を見上げた。
そこには、王都があるはずの方向を覆う、薄暗い雲が広がっている。
「……リリス。王都の方、なんだか嫌な予感がするね」
「ああ。魔物の気配が濃くなっている。……おそらく、近いうちに決着がつくだろう。彼らが自ら招いた結末にな」
アルスは一瞬だけ悲しげな顔をしたが、すぐに目の前の作業に意識を戻した。
「……そうだね。でも、僕にできるのは、この村の人たちと、リリスを守ることだけだから」
アルスが調合の手を止めずに答えると、リリスは満足げに目を細めた。
追放された者が手に入れた、穏やかな平和。
一方で、彼を捨てた者たちが直面する、避けられぬ破滅。
運命の歯車は、もう誰にも止められない速度で回り始めていた。
「さあ、リリス。この石が完成したら、みんなで井戸にお祝いに行こう。今日は村の子供たちに、特製の果実ジュースも作るって約束したんだ」
「ふん、お前は甘やかしすぎだぞ。……だが、そのジュース、私にも一番に飲ませてくれるのだろうな?」
「もちろん。リリスのが一番特濃だよ」
二人の笑い声が、平和な村の空気に溶けていく。
王都を飲み込もうとする闇が、すぐそこまで迫っていることなど、今の彼らにとってはどうでもよいことだった。
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