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黒い人影ーその4ー

 トイレの中に入ったはずのミノリは、手品のように姿を消してしまった。アンちゃんの家のトイレには小窓がひとつだけあるが、人が通れる大きさではない。他に出入りできる場所といえば、いま私たちが立っているこのドアだけだ。つまり、ドアの前で私たちを通り過ぎずに出入りするのは不可能なはず。

 さっき、たしかにミノリの背中を見送ったのに。どこへ行ってしまったのだろう? 


 ガチャ


 背後から音がした。


 ガチャ


 ガチャガチャガチャガチャ!


 無理やり何かをこじ開けようとする激しい音が廊下に響き渡る。アンちゃんが私の手をさっと握り、涙声で言った。


「今度はなによ〜!!?」


 私もアンちゃんの手を握り返した。そうしていないと今にも倒れてしまいそうなほど不安だったのだ。パニック映画を観ている時に思うことがある。生き残るには、強い恐怖を感じる時にこそ理性を保たなければならない。異常なことが起こっている今、私は必死で頭を働かせた。

 ミノリが消えた。次は後方にある玄関ドアがガチャガチャ鳴っている。そうか、アンちゃんのお母さんが帰ってきたのかもしれない。けれどそれにしてはおかしかった。家の人なら、こんなにガチャガチャ音を鳴らしてドアを開けるはずがないだろう。ということは、また不審者が? いや、それとも。今度こそ・・・本当に、幽霊?

 黒い影がドアをこじ開けようともがいている映像が浮かんだ。

 不安になりアンちゃんの顔を見やると、目を大きく見開き、廊下の先を凝視し続けていた。


 ガチャリ


 解錠音が廊下に反響する。距離はあるが、目の前でドアが開いていく。

 私とアンちゃんは、互いの手を強く握りしめた。痛い。アンちゃんの爪が指に食い込んでいる。けれど手を離すことはできそうにない。怖いのだ。これ以上怖い思いをするのはもうたくさんなのに、自分の鼓動が早鐘のように警鐘を鳴らし続け、逃げろとしきりに囁いてくる。危険のサインをずっと出し続けているのに足は動かず、代わりにできる事といえば、友だちの手をぎゅうぅぅっと強く握ることだけだった。

 細長い光が廊下にさした。四角い枠を切り取ったような眩しい光。それはドアが開いていくことを意味していた。重々しい音が響き渡る。


 ギィィィ・・・


 人の形の輪郭がハッキリと見えた。再び誰かが侵入するのを許してしまったが、逆光で顔がよく見えない。人影が玄関の土間をコツコツ鳴らして歩き、音が止んだ時だった。


「ただいま! アン、大丈夫だった!?」


 侵入者は、アンちゃんのお母さんだった。

 ホッとした。アンちゃんも同じ気持ち、いや、きっと私よりもっと安心したはずだ。案の定、半分泣きそうな顔をしていたアンちゃんだったのだが、すぐに顔を真っ赤にして怒鳴りはじめた。


「もう! 何でドアを開けるのにガチャガチャするの!? すごく怖かったじゃん!!」

「え? あぁ、ごめんね。古くなってるせいか、最近鍵を開ける時にスムーズにいかないのよ。でもそんなこと、アンも知ってるでしょ?」


 涙目のアンちゃんが頬をぷくっと膨らませた。高校生だというのに、幼い子どものような仕草だと思った。


「・・・忘れてたの!」


 そう言ってお母さんの元に駆け出すアンちゃん。私もたまらなくなり、そのあとを追って抱きしめ合う親子の傍に佇んだ。

 お母さんはアンちゃんをギュッと抱きしめたまま、こちらを見て言った。


「あなたも怪我はない?」

「はい、平気です」

「そう。良かったわ。二人とも心細いんじゃないかって心配してたのよ」

「怖かったですけど・・・」


 私のことよりも友だちが消えてしまった。そう言おうとしたが、タイミングが合わず遮られてしまった。


「今日はいろいろあったわね。事故に住居侵入。立て続けに落ち込むことばかりで辛かったわよね」


 話を聞きながら何度も頷いていたが、ふと何かが引っ掛かり、首を振るのをやめた。

 いま、事故って言った?

 アンちゃんに強く握られた手がジンジンする。痛む手をさすりながら、事故という言葉を頭の中で何度も反芻する。でも口にするのは何故かためらわれた。すると、私の代わりにアンちゃんが訊いてくれた。

 

「・・・事故? お母さん、事故って何のこと? それに続けて落ち込むって、どういう意味なの?」

「もしかして知らないの? でもどうして? あぁ、そうか。保護者にしか来てないのね。実は私もメールが来てたことにさっき気づいて、びっくりしたんだけどもね」


 そう言いながら、アンちゃんのお母さんは肩にかけたバックからスマホを取り出し、画面をタップしながら話を続けた。

 

「今日のお昼過ぎなんだけれど。アンと同じ学校の女の子が事故にあって病院に運ばれたらしいのよ。苗字は忘れちゃったけど、下の名前はミノリさんよ。同じ学年の子じゃないわよね?」


 鈍器で頭を殴られるような衝撃だった。私はアンちゃんと顔を見合わせ、言葉を失ってしまった。

 ミノリが事故? いや、そんなはずない。だって、さっきまで一緒にいたし・・・

 理解が追いつかず呆然としていたが、アンちゃんのお母さんは私たちの変化に気づかずに、話を続けていた。

 

「ずっと雨が酷かったでしょ? その時に車に轢かれたらしいのよ。かわいそうに」


 その場に立ち尽くしていると、突然お母さんが叫んだ。


「やだ、廊下が濡れてるじゃない! アン、タオル持ってきて」

「う、うん・・・」


 アンちゃんがリビングへ引っ込んでまもなく、タオルを持ってやって来た。それを確認したお母さんはバックを玄関の隅に置き、タオルを受け取ると廊下を拭きはじめた。

 そうだ、ワンピースの女性はゲリラ雷雨の最中に家に侵入したのだ。だから彼女はびしょ濡れだった。傘をささなかったのか、あるいはさしても濡れてしまうほどの雷雨だったのか。そういう理由で、廊下が濡れてしまったのだ。でもそうなると・・・ミノリも大雨が降っている最中に来たはずなのに、髪や服はちっとも濡れていなかった。激しい雨なら少しは濡れるはずなのに、なぜなのだろう? 玄関で拭いてから部屋に上がったのだろうか。


「ねぇ、アン。お友達、もう一人いるって連絡くれたでしょう? その子はどこにいるの? みんな家まで送ってあげるわよ」

「いや、それが・・・」

「あら? もしかして、もう帰っちゃったの?」


 私とアンちゃんがお母さんを振り返った。お母さんは土間に並ぶ靴を眺めながら、口元に笑みを浮かべていた。


「やぁねぇ、二人してオバケでも見るような顔して。言わなくてもわかるわよ? だって靴の数が足りないじゃない」


 私とアンちゃんは急いで土間を見やった。土間にはアンちゃんがよく履いているピンクのスニーカーと、私の水色のスニーカー、それに大人もののパンプスがあるだけだった。これはアンちゃんのお母さんのものだろう。でもそうしたら、ミノリの履いてきた靴はどこに?

 お母さんがスマホを取り出して首を傾げて言った。


「事故にあった子の名前だけど、小鳥に遊ぶ・・・この苗字、なんて読むんだっけ?」


 旋律が走った。

 小鳥に遊ぶと書いて、たかなしと読む。

 タカナシミノリ。それがミノリのフルネームだった。


 ブー、ブー


 スマホのバイブが聞こえたあと、アンちゃんのお母さんがポケットからスマホを取り出した。何かをチェックする仕草。やがて顔を上げると、静かな口調で言った。


「・・・ミノリさん、ついさっき亡くなったそうよ」


 頭が真っ白になった。アンちゃんを振り返ると、顔面蒼白だった。


 カラン


 背後から音が聞こえた。リビングの方からだ。部屋の中を覗くと、音が鳴ったものを目だけ動かして探した。

 窓や棚に異常はない。テーブルはどうだろう? 汗をかいた三つのグラスが目に留まった。その中のひとつの水面が揺れ、カランと鳴った。じっと目を凝らすと、氷が溶けてぶつかった音なのだと気がついた。

 コーヒーグラスはすごろくのボードを囲うように置かれていた。そのボード上には赤と黄色のコマはゴールに、青いコマはスタート地点にひとつだけ置かれているのだった。

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