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積川和枝 其の5

「あ、ありがとうございました」


落語をし終えて、遊、英子、高子の三人に一礼をする和枝でしたが、その目に涙を浮かべているのです。すぐに、遊が和枝に駆け寄って行きます。


「ど、どうしちゃったの、和枝さん。泣き出したりなんかして」

「だって、だって、僕の言ってることが聞いている三人に、全然伝わっていないんだもん。遊君達の聞いている顔を見れば、僕のいう事が、ちんぷんかんぷんだって事ぐらいわかるさ」


そう言って、泣きじゃくる和枝です。思わず、英子は一言言おうとしますが、それを高子が制します。高子にしてみれば、ここは遊に任せてみよう、という事なのでしょう。


「違う、違うのよ、和枝さん。和枝さんは何にも悪くないの。そうね、実際、和枝さんの落語を聞いてて、わからないところもあったの」

「やっぱりそうなんだ。僕の落語なんて、全然駄目なんだ」

「だからそうじゃなくって、悪いのは、あたしなんだから。嫌がる和枝さんに、無理やりやらせちゃったあたしがいけないの。ほら、和枝さんは、専門的な知識を前提とする落語だと、前もって言ってくれたじゃない。そうね、まず第一に、その専門的内容を、和枝さんに聞いておくべきだったわ。ねえ、そうよね、英ちゃん、高子さん」


英子も高子も、和枝をなだめようと、大きくうなずきます。それを見て、遊が和枝へのフォローを続けます。


「ほらね、英ちゃんも高子さんもそう思っているみたいだし、和枝さん、あたし達に、その専門知識、教えてくれないかなあ」

「で、でも、僕が話したいことが、君たちの聞きたいことであるとは限らないし……」

「そんなことないったら、和枝さん。少なくとも今は、和枝さんが、あたし達のためにしてくれた落語のことを理解したいのよ。だから、そのための知識を、和枝さんに教えて欲しいの。そのね、和枝さんの落語を聞いててね、多分だけど、海に浮かぶ“軍艦”と、それと同じ発音をする何かを、掛けて話を進めているんでしょう。でもね、その何かがあたしは知らないのよ」

「そうだったの、遊くん」

「そうなの、和枝さん。だから、その何かをあたしは、和枝さんに教えてもらいたいんだけど。ねっ、英ちゃん、高子さん」


遊に話を振られて、ただただ、同意をする英子と高子です。


「そうだよ、ぜひ、わたし達にその専門分野を指南してちょうだいな、和枝さん。だよねえ、高子」

「そうだとも、この高子さんも、和枝くんに師事してもらいたくてたまらないんだ。そうなんだよ、米村君」


遊と英子、そして高子の慰めが功を奏して、和枝はようやく気持ちが収まりました。


「その、こちらこそ、申し訳ないことをした。せっかく、三人が聞いてくれるというんだから、三人の好みも考慮すべきだった」

「そんなことないんだからね、和枝さん。強引に迫っちゃったあたしの責任なんだから」

「いや、僕はもう大丈夫だ、遊君。ところで、これを見てくれたまえ」


なおも詫び続ける遊に対し、かばんから紙とペンを取り出し、何か書いて、遊に見せる和枝です。そこには、“群・環・体”と書かれています。


「えっと、“ぐん・かん・たい”って読むんですか、和枝さん。ああ、船のほうの“軍艦”とこれを掛けていたんですね。ううん、でも、読みはわかりますけど、何のことかはわからないです。英ちゃんと、高子さんはどうですか」

「えっ、わたし! 遊ちゃん。ごめんね、わたしも知らないの。高子、あんたはどうなの」

「この高子さんに知らぬものなどない! と言いたいところだけど、残念ながら、わたくしもわからないわ」


遊、英子、高子の三人とも、“群・環・体”についてさっぱりだと答えられて、和枝は意外そうな顔をするのでした。


「そうか、三人とも知らないのか。そんなものなんだな。ああ、三人が悪いんじゃあないよ。何事も、自分が知っていることは他人も知っているとは限らないんだな」

「あの、それで、もう一ついいかな、和枝さん」

「おお、遊君、いいとも。好きなことを聞いてくれ」

「その、和枝さんのさっきの落語だと、“ぐんかん”だけじゃなくて、“せき”という言葉にも二種類の意味を持たせていたと思うんですが、一方は船の“隻”だとして、もう片方は……」

「その通りだよ、遊君。船を数える時の、一隻二隻の“隻”と、掛け算をしたことを表す“積”だ。足し算なら“和”、引き算なら“差”、割り算なら“商”だよ」

「ということは、和枝さん。その“群・環・体”というのも……」

「ああ、数学的なお話だ、遊君。何かまずいかな」

「まずいというか、落語で、話の内容に、数学とか持ち出すことは、あまりないと思うのですが」

「そうなのか、世の中の人間は、数学にそんなに興味がないのか。僕は、大変興味深いと思うなだがなあ。英子君と高子君はどうなんだい」


突然、自分達に、話題を持ちかけられて、英子と高子はしどろもどろになります。


「えっ、わたし、わたしはその、ほら、あんたはどうなのよ、高子」

「急に、わたくしに振らないでくれ、米村君。いや、この高子さんは、数学そのものよりも、数学者のエピソードに興味があるというか、ライプニッツの才能に嫉妬したニュートンが、ライプニッツの業績をなきものにしようとした、なんて話にぞくぞくしちゃたりなんかして」

「へえ、高子ったら、そんなことに興味がおありで」

「ああ、そうなんだよ、米村君。微分積分って言葉くらいは聞いたことがあるだろう。それとね、ニュートン、これは有名だね。それに、もう一人、ライプニッツって学者がいたんだけどね、この二人はそれぞれ独自に、その微分積分を発見したみたいなんだ。ところが、ニュートンは、その時すでに、科学界の重鎮でね、それに対して、ぺーぺーもいいところだった、ライプニッツの発見を、まあ、政治力やら何やらを駆使して、潰しちゃったみたいなんだなあ」

「へえ、そんなことがあったの」

「そうなんだ。じゃなくて、この高子さんが話すことは、今はどうでもいいんだよ。とにかく、わたくしは、そういう話の方が好みなんだ」


高子の嗜好の告白に、和枝はそれはそれは驚いたみたいです。


「へえ、そうなんだ。高子君はそういう話がお好きなんだ。だったら、“群・環・体”を発見した、ガロアの人となりを話した方がいいのかな」


和枝はそう思いなおしたようです。






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