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武道場にて 其の4

「ええと、それでね、遊さん。その、ご褒美の、落語を始める前に、一つ聞いておきたいことがあるんだけれど……」


 怜先生が武道場を去って、遊と英子は二人になりました。ですけれども、英子は、やっと念願である遊と二人きりになれたというのに、どうも不安げです。


「何ですか、英子さん」

「そのね、昨日わたしが、遊さんに『時そば』を聞かせたじゃない。でも、あれって、おおもとである、古典落語の『時そば』を知っていることが前提の話じゃない?」

「まあ、そうなりますね。『時そば』の内容そのものをわかっている人に聞かせたほうが通じやすいことは間違いないでしょうね。それに古典落語が日本で江戸時代から続いている、伝統的なものだということを知らないと、英語圏から来たであろうお兄さんが古典落語に通じている、というギャップ自体わかりにくいだろうし」

「そう! そうなのよ! 遊さん。で、遊さんがどのくらい、古典落語を知っているか教えてほしいんだけども。遊さんはいくつくらい、古典落語の演目を知っているのかなあって。あっ、いえね、知らないなら知らないで別に全然構わないんだけどね」

「あたしが知っている演目ですか。そうですね、『時そば』はもちろん、知ってますし、ほかには『寿限無』、『まんじゅう怖い』、『目黒のさんま』、『猫の茶碗』、『子別れ』、『権助提灯』、『明烏』、『品川心中』、『粗忽長屋』、『出来心』、『ちりとてちん』、『死神』……」

「わかった、わかったわ、遊さん。そのくらいにしてちょうだい」

「はあ、もういいんですか、英子さん」

「ええ、十分すぎるくらいよ、遊さん、それだけぽんぽんと出て来るなら、何の問題もないわ。それじゃあ、始めようかな」

「ああ、その前に、英子さん。一ついいですか」

「えっ、なあに、遊さん。何かリクエストでもあるの」

「まあ、リクエストというか。ほら、”高座”っていうじゃあないですか。噺家さんが落語する時に、正座する場所のことを」

「うん、そうね、遊さん」

「それで、落語を聞かせてもらうあたしと、落語をしてくれる英子さんが、同じ畳の上に座っていることは大丈夫なのかなあって。せめて、英子さんには座布団くらいあったほうがいいんじゃあないかな、と思うんですが」

「あっ、そっか。それもそうか。でも、遊さんったら、えらくわたしに気を回してくれるわね。うれしいわ」

「いやその、昨日保健室で、英子さんが、あたしに長い間話を聞かせてくれたから、英子さん、足をしびれさせちゃったんですよね。その結果、その……」


 遊はそう言うと、顔を赤らめます。そして、英子も顔が真っ赤になりました。


「そ、そうね、遊さん。あんなことがまた起きちゃあまずいわね。うん、実によろしくないわ。大変まずいことこの上ないね。だったら、そう、壁際に、マット運動用の、マットが敷いてあるから、私はそこに座ることにしようかしらね」

「そ、そうですね、英子さん。あたしもそれがいいと思います」


 遊と英子の二人はそうして、場所を移動しました。英子は壁際のマットに正座して、遊は英子に向かい合って腰を下ろします。こころなしか遊は、英子とは少し距離を取っているようでした。


「じゃ、じゃあ、始めるわね、遊さん」

「はい、英子さん。お願いします」


 こうして、英子の高座が始まりました。



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