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武道場にて 其の3

「じゃあとりあえず座学からね」


怜先生がそう言うと、遊が意外といった様子で聞き返します。


「座学からですか、てっきり、腕立て伏せでもやらされるのかと思いましたよ」

「先生はそれでも構わないけれど、遊さんも英子さんもスカートじゃない。女の子なんだから少しは慎みというものを持ちなさい。それとも、遊さん。あなた、柔道着持ってきてるの? というより、そもそも柔道着、持っているの?」

「持ってません、柄見先生。すいません」

「いいのよ、遊さん。謝る事じゃあないわ。その辺りの、今後この海応学園で必要となるものについても、昨日のうちに話して置く予定だったのだけれどね。お金に関しては、すでに入学金やら、授業料やら、教材費やらで銀行に振り込んでもらってるみたいだけど、実際に受け渡すのは後日ということになっているようなんだけど、それこそ、例のごたごたのおかげで、先送りになっちゃったしね」

「ごたごたって、英子さんがしてくれた、保健室での『時そば』を柄見先生がこっそり覗いていたっていう事ですか」

「先生には、遊さんが何をいっているのかさっぱりわからないわね。さあ、座学よ座学、張り切っていきましょう」

「はあ」


遊は納得いかないという表情ですが、そんなことには一切頓着せずに怜先生は、説明を始めます。


「ちなみに、遊さん。あなた、柔道に対してどんなイメージを持ってるの? ああ、別にこれは単なるアンケートみたいなものだから、正解も不正解もないわ。遠慮なんかせずに正直なところを言っちゃってくださいな」

「そうですか。それなら、オリンピックで白いのと青いのを着た二人が、服をつかみ合って、お互いに引っ張りっこしてるイメージですが」

「なるほどね、非常に参考になったわ、遊さん」

「すいません、柄見先生。貧弱なイメージで」

「いいのよ、遊さん。だからこれは意識調査で、この補習をどう進めていくかにあたってのものだかね。ちなみに、その二人は、立ってた? 寝てた?」

「はあ、立ってたか寝てたかどうかと言われても、柔道って二種類あるんですか、柄見先生?」

「あるといえばあるけどね、柔道には大きく分けて、立ち技と寝技の二つがあるのよ、遊さん。だけどね、オリンピックで二つのルールの柔道が行われているというわけじゃあなくてね、一つのルールの中に二種類のテクニックがあるとでもい言えばいいのかしら。申し訳無いけど、遊さん、先生にはこれ以上、端的に説明することはできないわ。どうしても時間を取られちゃうからね。他の生徒に中学の三年間かけて教えるようなことを、そんなに簡潔に説明できたら、誰も苦労はしないということね。そうね、興味があったら、英子さんに頼みなさい。うちの柔道部には話して置くから、部活動中に柔道場の隅っこで初歩的なことをするくらいなら、部員の子たちにも了解してもらうわ。それでいいかしら、英子さん」

「えっ、わたしですか? 怜先生」

「そう、あなたよ、英子さん。白状しちゃうとね、先生もそこまで遊さんにかかりきりにはなれないのよ。あんまり特別扱いはできないということね、遊さん。柔道の授業中にもサポートに一つや二つはするつもりだけども、それにだって限度はあっちゃうからね。英子さんが遊さんを手伝ってくれたら、先生も助かるわ」

「柄見先生、それって、授業中に他の人とは、別のメニューをするということですか。編入生の私はともかく、英子さんまでそれに付き合わせちゃうのはどうかと。ねえ、英子さん」

「えっ、いや、わたしは、その、別に」

「そうね、遊さん、英子さん。その別メニューであることが、柔道、つまり教科としては保健体育の内申点に全く影響しないわけじゃあないから、親御さんと良く相談しなさいな」

「内申点ですか」

「そうよ、遊さん。大学への推薦も視野に入れるなら、内申点のことも考えておくべきよ。ま、柔道教諭の先生が言うのもなんだけれど、一般入試なら、内申点なんて全くと言っていいほど、かんけいなんてないんでけどね」

「わかりました、柄見先生」

「ちなみに、先生の教育方針として、授業で行う際は寝技ばっかしよ。立ち技はほぼやらないと言っていいわ。これにも理由はいろいろあるんだけれどね。ま、おいおい説明していくわ。だけども、先生がやっちゃうより、英子さんにお願いしちゃったほうがいいかもしれないわね。ねえ、英子さん」


 そういって、怜先生は英子をいたずらっぽく見つめます。


「わ、わ、わ、わたしが! 遊さんに! 寝技をですか!」

「そうよ、英子さん。そもそも、中学の授業では、立ち技、教えてないでしょ。ああ、一応言っておくけど、英子さんと遊さん、二人きりの時はあんまり過激なことしちゃあだめだからね」

「せ、せ、先生、怜先生! わたしはそんな遊さんを過激にしちゃうなんていうつもりは」

「そう、わかってるならそれでいいわ、英子さん。寝技の乱取りはもちろんのこと、技をかけることも禁止しちゃいますからね。そういう事がしたいなら、先生が目を光らせているときか、最低でも、部活動中に、部員が何人かいるときにしなさい。そうね、二人きりの時は、柔道のルールとか、一人でやる基礎動作のやり方とか、それを何のためにやるのかとか、それが実際の試合でどういうふうに役に立つかとかぐらいにしときなさい。だから、授業でやった、足の内回し、外回し、エビ、逆エビぐらいが手始めにはいいんじゃあないかしら」

「えっ、内回し、外回し、エビ、逆エビ。怜先生。それって、柔道のやつですか」

「そうよ、英子さん。おや、英子さんは、何か別の過激なことを遊さんとするつもりだったのかしら」

「そ、そ、そんなことあるはずあるわけないじゃあないですか。そうよ、まずは基本よ、基本。いいわね、遊さん。いきなり実戦形式なんて、そんな危険なこと絶対にいけませんからね。まず、二人で、一から順を追って、ゆっくりじっくりやっていくのよ。遊さんが怪我なんてしちゃうようなことは論外なんだからね」

「まあ、あたしは、初心者もいいところですから、柄見先生と英子さん、お二人がそう言うのなら、いやも応もないですけれど」

「話はまとまったようね、遊さん、英子さん。それでは、先生の補習はこのくらいにしときましょうかね。あんまり長引くと、二人の楽しい楽しいご褒美タイムがなくなっちゃうからね」


 怜先生が、遊と英子を茶化したところ、英子は、すっかり照れてしまいました。


「やだ、怜先生。ご褒美タイムだなんて、そんなあ」

「ああ、柄見先生。これで補習が終わりなら、できれば、先生にもご褒美が欲しいのですが、そんなにお時間は取らせませんので」

「あらあら、遊さんたら、英子さんにいただけるご褒美だけじゃあ物足りないとでもいうのかしら。あなたという人は、相当な欲張り屋さんみたいね」

「そ、そうよ、遊さん。わたし一人じゃ満足できないの? 三人一緒のご褒美タイムだなんて、遊さん、あなたったら。しかもお時間を取らせないって、すぐに満足しちゃうような、とんでもないことをしでかす気なんじゃあ」

「妙な誤解をしないでくださいよ、英子さん。もちろん、英子さんの落語は、それはそれは待ち遠しいですし、とっても楽しみにしていますよ。それに、できれば、英子さんが落語をする時は、あたしは一人でじっくり聞きたいですし」

「それって、わたしと遊さんの二人でってこと?」

「はい、英子さん」

「それならそうと言ってくれれば……だったら遊さん、怜先生には何をしてほしいのよ?」

「はい、それはですね。柄見先生に正座姿を見せてほしいんです」


 遊の頼みに怜先生も少し驚いたようです。


「へえ、遊さんは、先生が正座するところを見たいの」

「そうです、柄見先生。先生ずっと立ちっぱなしで話してくれましたよね。それはそれでいいのですけれども。できれば、柔道指導教諭である柄見先生が一体どういうふうに正座をされるのか、拝見させてもらえればと」

「そのくらいなら、全然問題ないわよ、遊さん。それじゃあ、失礼してっと」


 そう言って、怜先生は居住まいを正して、正座を行いました。


「どうかしら? 遊さん」

「すっごく、おきれいです、柄見先生。やっぱり、武道家の凛としたたたずまいというか、姿勢に一本の筋がピシッと通っている感じがします」

「ありがとう、遊さん。柔道だけに”一本”ということね、うまいことを言うじゃない」

「いえ、柄見先生。あたしは冗談を言ったつもりではないのですが」

「わかってるわ、遊さん。それにしても正座ねえ。落語をたしなむ遊さんとしては、座り方にも興味が深々というわけね」

「ええ、そういう事なんですが」

「実際のところ、本職の落語家さんも日舞のお稽古なんかもしているみたいね。それはそれとして、せっかく先生が正座をしているんだから、遊さんと英子さんにも正座をしてもらおうかしら」

「は、はい、わかりました、柄見先生。ほら、英子さんも」

「えっ、ええ、そうね、遊さん」


 こうして、遊も英子も正座をしたところで、怜先生が二人に一礼をします。


「ありがとうございました、遊さん、英子さん」

「は、はい、ありがとうございました、柄見先生」

「ありがとうございました、怜先生」


 遊と英子の二人も返礼をします。ですが、頭を下げていたので、怜先生と遊には見えてはいませんでしたが、英子は少し悔しそうな顔をしていました。遊があまりに怜先生を褒めちぎるものですから、嫉妬ちゃったのかもしれません。最も怜先生は、そのことにも気づいていたかもしれませんが。 


「それじゃあ、先生の用事はこれでおしまいとするわね。後は二人でよろしくやってちょうだい」


 そういって、怜先生は立ち上がって、その場を去ろうとします。そこに遊が再度お礼を言います。


「あの、柄見先生。本当にありがとうございました。正座までしてくださって」

「いいのよ、遊さん。本音をいっちゃえばね、遊さんが、先生に正座を頼んでくれて、うまい具合に事が運んだなって思ったのよね。補習をお互いへの礼で終わらすことができたからね。武道は、礼に始まって礼に終わるものだから」

「そうですか、柄見先生。そういっていただければ、こちらとしても幸いです」

「それじゃあ、後は二人の時間としてちょうだい。終わったら、先生に電話してくれればいいから。先生はちょっと校舎のほうに用事があるからね。そうね、一時間ぐらいかしら。あんまり長くなってもねえ」


 怜先生がそう言うと、英子がとんでもないといった様子で訂正を求めます。


「いやいや、怜先生。何言ってるんですか。一時間なんて、ちょっとした独演会じゃあないですか。いくら何でも、遊さんだってそこまでは求めやしないですよ」

「そんなことありませんよ、英子さん」

「うそっ、ないの、遊さん」

「ええ、そりゃあ、一日二十四時間ぶっ続けとか言われたら、さすがに困りますけれど、一時間なら、あたしは、英子さんの話、聞きたいです。もちろん、英子さんがしてくれるという事でしたらですけど」

「わ、わたしは、遊さんが聞いてくれるのだったら、全然話しちゃうけれど……」

「決まりみたいね、遊さん、英子さん。それじゃあそういうことで」


 そう言って怜先生は武道場を出ていきました




 


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