武道場にて 其の2
少しして、怜先生が、紙の束を持って、遊と英子のところに戻ってきました。
「やあ、お待たせ、二人とも。それでね、遊さん、海応学園では、中学三年と高校一年生の間の春休みに、実力試験があるのよね。当然、遊さん、あなたはしてないわ。編入試験は受けたけどね。ま、実力試験を受けていないこと自体はそう問題ではないのだけれどもね、その試験が、入学式の後の各授業で返却されるんだけど、その際に、問題解説もその教科担任の先生がしてくれるのよ。その時遊さんが、『自分、そんな試験受けてないですから』なんて様子でぼさっとしていられるのは、問題になっちゃうのよね。だから、これがその試験の問題用紙ね」
そう言って、怜先生は手に持った問題用紙の束を遊に手渡します。
「本当は、昨日のうちに渡すはずだったんだけどね。ほら、昨日は昨日でいろいろあったじゃあない、保健室で……」
「わかりました、わかりましたから、柄見先生! それ以上言わないでください」
「そうなの? で、そういうことだから、今こうして渡すというわけね、一日遅れになっちゃったけど、どうする、遊さん? 先生、糾弾されちゃうかしら」
「しませんってば、先生。そんなことしたら、あたしと、英子さんの二人にもカウンターが来ちゃうじゃあないですか。そうよねえ、英子さん」
「う、うん、遊さん。ですから、怜先生、昨日の一件は是非ともご内密に」
「じゃあ、このことは三人だけの秘密というわけね。それだから、遊さん、その試験をね、きちんと時間を測ってときなさいとまでは言わないけれど、ざっと目を通すぐらいのことはしてちょうだいな」
「わかりました、柄見先生」
「それでね、遊さん。実はこの実力試験云々はね、ただのイントロでね、本題は別にあるの」
「はあ、で、その本題っていうのは何ですか」
すると怜先生は、打って変わって真面目な顔になって、話し始めます。
「それはね、遊さんここ、海応学園では柔道が中学高校と必修だということは知ってるわね」
「はい、知ってます、柄見先生」
「ということは、遊さんが編入してきた結果、中学の三年間柔道をしてきた生徒に混じって、遊さんも高校から柔道の授業をすることになっちゃうのよ。一応聞くけど、遊さん、あなた、何か格闘技、というよりスポーツ経験はあるのかしら」
「中学の時は帰宅部で、保健体育の成績は、三年間ずっと五段階評定で三でした。自分では、実技では二だけれども、ペーパーで何とかして、お情けで三をもらったと思っています。正直言って、柔道と言われても、何が何やらです」
「なるほどね、遊さん。よくわかったわ。まあ、三年間と言っても、週に一回だし、夏休みとか、冬休みとかもあるし、そこまで本格的なものでもないのだけれどね。それでも、遊さんみたいなからきしの素人と一緒にやらせるのもねえ。ああ、別段、それを悪いと言っているわけじゃあないわよ。編入試験の合否判定の基準に柔道はないのだからね。ですが、先生には、柔道教師としての責任があります。教科としての柔道を指導することももちろんだけど、生徒に怪我をさせないという責任がね」
「怪我、ですか、柄見先生」
「そうよ、遊さん。教室に座っての勉強なら、生徒が全く理解できなくても、最悪時間の無駄で済むけど、実技を伴う柔道だと、怪我の可能性が出てくるからね。親御さんから預かった、嫁入り前の大事な娘さんに、もしものことがあったら、申し訳が立ちませんからね。というわけで、遊さんにはしばらく柔道の補習を受けてもらいます。いやとは言わせないわよ」
「ええ、それはもちろんですが、どうして英子さんもいっしょに来させるように昨日電話でおっしゃったんですか。ねえ、英子さん」
突然自分に話を振られて、それまでなんとなく遊の様子を見物していた英子は、びっくりしてしまいます」
「そ、そうですよ、怜先生。私は仕方なくここにきたけど、さっきまでの話の内容からすると、特別わたしが来る必然性がないように思えるんですが」
「ああ、それはね、英子さん。やっぱり、柔道は相手とやりあうものだから、パートナーがいたほうが何かと都合がいいでしょう。二人で打ち込み練習とかするわけだし。先生が組んでもいいけれど、それだと、説明しづらいからね。それに、遊さんにただ補習を受けさせるだけというのもつまらな……申し訳ないから、遊さんには何か補習を受けたことに対するご褒美をあげようと思ってね」
「ご褒美ですか、怜先生」
「そう、ご褒美。遊さん。柔道の補習をやったら、英子さんが、昨日の『時そば』とは別の新しい落語聞かせてくれるって」
「ちょ、ちょ、ちょっと、怜先生。何ですかそれ、新しい落語って。だいたいなんで、怜先生が昨日の『時そば』の事知っているんですか」
「おっと、これは失言。先生はあの時いなかったはずなんだっけ」
「いなかったはずって、じゃあ本当はいたんですか。いたなら、あのベッドでの一件は事故だってわかってたんですね。それをよくもまあぬけぬけと、さんざん『学校の保健室でいい度胸してるじゃない』とか何とか言っといて、その上遊さんを脅迫までして、遊さんったら、なんて不憫なんでしょう」
「まあまあ、英子さん、そのくらいで。それより、 落語、するの? しないの?」
「いや、落語をすることは、別にやぶさかじゃあないんですが、でも、だいたい、わたしの落語が遊さんにとってご褒美になるかどうかもわからないのに」
「と、英子さんはおっしゃっていますが、当の本人である遊さんはどうお考えなんでしょうねえ」
「あたしは嬉しいですよ。英子さんが新しい落語聞かせてくれたら」
「と、遊さんはおいいですよ、英子さん」
「ちょっと、ちょっと、遊さん。いくら怜先生が変な事言ったからってね、お世辞を言う必要なんてちっともありはしないのよ」
「いえ、英子さん。別にお世辞なんかじゃあないですよ。あたしは、英子さんの落語、聞きたいです」
「ゆ、遊さんがそこまで言うのだったら。編入したばかりで、右も左もわからない遊さんの力になることは、人として当然のことだし。せっかくここ武道場までいっしょに来たんだしね」
「話は決まったようね、遊さん、英子さん。それじゃあ、善は急げね。補習、始めるわよ」
そう言って、怜先生は右手を高々と上げるのでした。




