世界と断片:プロローグ
これは、魔鍵の少女バッドエンドが自由を与えられ、泥棒王ファウストがアダムの血を盗むまでに起きていた世界の断片の物語。
同時にそれ以前の世界で起きていた数多の物語が始まる。
まず語られるこの断片の物語は、ファウストとバッドエンドが出会う少し前の、世界の記憶。
「……やぁ、久しぶりだね」
ノイタール聖国。
その辺境の地に、酷く荒んだ小さな酒場がある。
闇の仲介屋であるシルビアの隠れ家。
酒場の出入り口の扉が、小さな鐘の音を鳴らすと、その男が現れた。
「はぁ……相変わらずだなお前は」
世界中が憧れるであろう、その金髪の長髪なびかせる。
そして、魔眼を宿すそのキリッとした瞳で男に眼をやる。
とても魅力的でそれを引き立てる、整った顔。
そんな美貌を誇る女性であるシルビアが、カウンター席の奥に座っている。
嫌な予感が胸を過ぎり、面倒くさそうな表情を浮かべる。
「あたしに用がある時はまずリアを通せと何度も言ってるはずだが? ……とにかく座れ、ジル」
白髪交じりの黒いオールバックの髪。
よく手入れされたスーツを着た、小綺麗な紳士的な雰囲気を醸しだす中年男性。
この来訪者はシルビアと親交の深い世界一の情報屋、ジルだった。
「君こそ変わらないね、安心したよ。シアラ産の豆はあるかい?」
そう告げて、シルビアの前にあるカウンター席へと腰掛けていく。
ジルの発言に眉をひそめるシルビア。
「どいつもこいつも……ここは酒場だぞ? 喫茶店と勘違いしてないか?」
文句を垂れ流しながらも、ジルの好むシアラ産最高級豆を使用した珈琲の用意をしっかりと始めるシルビア。
そんなシルビアの後姿を笑顔で見つめるジル。
「はは、いつもすまないね」
「フン、心にも無い事を……」
突然のジルの来訪を快く思っていないのか、言葉が刺々しい。
だが、それもいつもの事だった。
「本当さ、君達にはいつも感謝している」
「フン」
ジルの言葉にそれ以上の反応を示さず、シルビアは見えないように少し微笑みながら、背を向けて珈琲を準備してやる。
「はは」
二人も長い付き合いだ。
言葉を発さずとも通ずる事ができる。
天涯孤独だったジル。
そんな彼にとって、このシルビアやファウストの存在はとても大きく、決して失いたくないモノだった。
シルビアがこうして珈琲を淹れるまでの間も、親友であるファウストの顔が消えない。
どれ程。彼らに今まで救われてきた事か。
しかし、それでも。
ジルの心はとうの昔から、この不条理な世界によって蝕まれていた。
だから今日、ある決意を胸に抱き、こうして訪れたのだ。
「ほら。……相変わらず贅沢な舌だなお前は」
ジルの前にマグカップが置かれる。
金と白を基調とした装飾が施されている上品なカップに、シアラ産最高級豆で淹れられた珈琲。
その香りは店内に広がり、鼻腔を通して心を安らげる。
自然が大変豊かなシアラ神国。
その大地で獲れた珈琲豆は世界中でも高い評価がされている。
ジルはゆっくりとカップに手に取り、その香り愉しむ。
「贅沢な舌かどうかは置いておいて……やはり珈琲に関してはシアラ産に限るよ」
そして一口。
とても深いコク。
少し酸味がありながらも、さっぱりしており、香ばしさが他の珈琲の比ではない。
まさに一つの完成形。
ジルはこの珈琲をそう評する。
「フフ、珈琲オタクめ。どっかの馬鹿は馬鹿みたいに一番安いブラックしか飲まんからな、あの馬鹿」
散々の言われよう。
ジルはそんな親友の、深く刻まれるクマを思い出し、笑ってしまう。
しかし、そんなジルより先に、シルビアが本題を切り出す。
「リアを介さずお前がここに来る時はいつもロクな事がない。……ただこうして、珈琲を飲みに来たわけじゃないんだろ? それこそ喫茶店に行けば良いだろうからな」
その言葉にジルは、目を閉じながら何度かその珈琲の深みを舌鼓した後、カップをゆっくりとカウンターに置く。
目を閉じたまま、笑顔で答える。
「何か用が無ければ……僕はこうして、君の珈琲を飲みにきては駄目なのかい?」
しかし、シルビアにそんな見え透いた言葉は通じなかった。
何度も仕事を共にし、ファウスト程ではないにしろ、深い絆で結ばれているこの二人。
お互いプロである以上、必要最低限のルールは守ってきた。
ファウストを除き、シルビアとこうして対面するにはそれに必要な信用と理由を要する。
それはシルビアと親交が大変深いジルとて同じ。
こうしてシルビアの前に突如現れるのは今となってはジルぐらいなものだ。
それでも余程の事でない限り、まずリアを通す必要があった。
「言え、お前の頼みだ……無下にはしないさ。まず聞くだけ聞いてやる」
シルビア、ジル、ファウストは昔からの付き合いだった。
そんなジルの頼みを、あの闇の仲介屋として表と裏の世界から絶大な信頼を誇るシルビアも無下にできない。
大切な友、シルビアもそう思っている。
「……」
ある決意を、果てしない闇を抱えるジルの口が重くなる。
だがもうそれは揺るぎない。
しかし、躊躇してしまう。
「……一体どうした」
シルビアの友を案じる言葉に、ようやくジルも本題を口にする事を決める。
「……魔鍵、この存在を君も知っているだろ?」
魔鍵、その単語を知らない者など殆どいない。
今となっては伝説や御伽噺とされる楽園と、魔鍵。
しかし、シルビアは知っている。
それが伝説や、御伽噺の存在ではない事を。
世界を改変する力を持つ土地、楽園の扉を開く為に必要な魔鍵は確かに存在する。
しかし、だから何だと言うのか。
そんな存在を口にして、その口ぶりでは、まるで―――――
「お前……まさか、あの、魔鍵を見つけたのか……ッ!?」
シルビアの頭に、彼らの姿が過ぎった。
かつての泥棒王ファウスト、そして、ジャズ・モートン。
魔鍵を手にし、不幸な結末を辿った二人の男の姿。
「あぁ」
ジルが、重く頷く。
それに対してシルビアは、眼を大きく見開き、勢いよく席を立ちあがり、カウンターを力強く叩く。
カップが揺れる。
シルビアは珍しく動揺する。
「ジル……お前……」
全てを察する。
こうして、シルビアの元に訪れたジルの頼み。
「君に、ファウストに魔鍵を盗んできて欲しい」
盗んできて欲しい、という事は既に何者かの手に渡っている。
しかし、シルビアは、そんな事はどうでも良かった。
魔鍵を盗んで欲しい。
つまり。
ジルは魔鍵を手に、楽園へと向かい、世界を改変するつもりなのだ。
「……何故だ。何故、ファウストを指名しておきながら……あたしに依頼してきた。お前なら、直接ファウストに頼めばあいつは動くだろうが」
シルビアにとってジルの依頼は不可解だった。
しかし、それは彼の心が、戸惑いが、そうさせての事。
改めてその胸の内を徐々に明かす。
「はは、実はファウストには……依頼主が僕である事を隠しておいて欲しいんだ」
「……待て、どういう事だ?」
ジルは、嘘偽り無くシルビアに告白する。
「実は……魔鍵の情報を手にしてから……もう、抑えられないんだ……ッ」
世界に絶望するジル。
ジルは物心ついた時から、いつの間にかそこに居た。
ノイタール聖国、最底辺の場所。
ダンプラーに。
それは凄まじい幼少期だった。
幼い子供ながら、誰一人助けてくれず、誰一人信じられず、全てが、世界が敵だった。
ダンプラーの住民であったジルの身体と心は早くに蝕まれていき、大きな闇を抱えていた。
最底辺の場所で育ったジルにとって、外の世界は、とても、とても光が強く、眩しすぎた。
世界に怒り、憎しみ、狂気に飲まれていった。
しかし、ファウストやシルビアとの出会いによって、それも徐々に溶かされつつあった。
だが、それでも。
心に巣くう深い闇が完全に消え去る事は無かった。
そんなジルに、世界を改変する楽園の扉を開ける、魔鍵の情報が入ってきた。
ジルは、望んでしまった。
希望を持ってしまった。
この不条理な世界を消し去り、改変する事を。
「……僕は、君達と出会って、変わったつもりだった、でも……はは、見てくれ、僕は何も変わっていなかった、醜い生き物だ……この、世界に対する感情が、抑えきれないッ!!!! 魔眼を持つ、ファウストや、君以上に、僕は……ッ!!!」
頭を抱え、泣き叫ぶ。
そんなジルの姿に、シルビアの眼にも涙が浮かんでしまう。
狂気を押さえ込む事ができず、身体を震わすジルの頭をシルビアが優しく撫でる。
すると、何とか、少しジルは落ち着きを見せる。
「ジル……」
だから決意したのだ。
「……もう、僕は、僕自身で僕を止められないッ。……例え、君や、ファウストがこの依頼を断ったとしても僕は……僕以外の全てを犠牲にしてでも魔鍵を手にしてしまうッ!!! だから……ッ!!!!」
ジルが言葉を言い終える前に、シルビアはこの依頼の本当の目的を理解した。
自身で抑えれきれない憎悪。
それと同時に、ファウストとシルビアに自分の凶行を止めて欲しいという願いが激しくぶつかり合っているのだ。
だから、シルビアに、ファウストに魔鍵を盗む依頼を頼んできた。
何とも自分勝手な男の願い。
しかし、それでもシルビアにとって、ファウストにとっても、このジルは大切な存在。
「……あたしはファウストに恨まれるかもな、身勝手な男だ」
だが、シルビアはそんなジルの望みを叶え、その狂気から開放してやりたかった。
「はぁ……わかった。彼らや、あいつもそうだが、……お前もお前だ。あたしは、とことん男運が無いようだ」
ジルと同じように、シルビアも覚悟を決め、決意した。
世界の命運と、ジルをファウストに託すと。




