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シャハラと兵站皇子の盤上百味録  作者: kiyoaki
第一章 砂塵の後宮と胃弱の皇子

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第9話 不自然な肉の鮮度と柘榴と干し杏のケバブ・トルシェ<下>

「これは……おそらくは、北限の山脈から帝都までを最短距離で結ぶ、帝国軍の検問も砂漠の関所も通らない『秘密の抜け道』が存在するのだろう」

「そんなものがあるの?」

「古代の地下水脈跡か、地図から消された廃坑道なのか……。そこを通って、彼らは帝都に奇跡的な鮮度を保った物資を運び込んでいる。そうとしか考えられん」

 シャハラは包丁を静かに置いた。どこか憐れみ深い表情を浮かべた。

「権力というものは、人間の目を致命的に曇らせるのね。第三皇妃は自らの権勢を誇示するために、食べきれなかった氷高羊の生肉を下げ渡してしまった。宮から出さず、塩漬けにでもしてしまえばわからなかったのに」

「ああ、この肉が隠された道の存在を証明してしまうとはな」

 これは単なる食糧の密輸問題ではない。帝国の検問を通らずに、大量の物資を三日で帝都の心臓部に送り込める「隠し通路」が存在しているのだ。食料だけではない。当然ながら人も武器も運べる。

 すなわち、いつでも完全武装した軍を宮廷の足元へ配備できるということを意味している。

 第二皇子ザイード派は、いざという時のための首を絞める縄を、すでに用意しているということだ。

 ならば誰に縄を巻きつけるのか?

 皇帝か、それともライバルの皇子たちか?

 その剣呑すぎる事実を人質の王女――一介の料理人が、肉の塊から見破ってのけたのである。

「恐ろしい女だ、お前は」

 カムランは心からの感嘆と、薄ら寒い畏怖を込めて呟いた。

「そう?」

 シャハラは感情の読めない声であっさりと返した。

「北のファルハでも、氷高羊の生肉は滅多にお目にかかれなかった。だから不思議に思っただけ」

「……この肉、どうするつもりだ」

 カムランが問うと、シャハラは再び包丁を持ち、慣れた手つきで肉を捌き始めた。

「どうもしない。せっかくの極上の仔羊だもの。みんなのために『仔羊の熾火炙り(シシ・ケバブ)』を作る」

 彼女は肉塊の半分にクミンとコリアンダー、ニンニクをたっぷりと擦り込み始めた。これらは市場に大量かつ安価に出回っている大衆のスパイスで、横領することを諦めたバヒジが持ってくる支給品の中にも入っている。

 強烈な香りが、肉の持つ臭みを消してゆく。

 シャハラはカムランが持ってきた食材のかごを見た。柘榴(ざくろ)やイチジクなどの果物がぎっしりと詰まっている。

「あなたのお肉には別の魔法をかける」

「魔法?」

「漬け込む時間がいるから、夜更かしになるけど」

 カムランのために取り分けた赤身肉は、漆黒の液に漬けこまれた。

 完熟した柘榴の濃厚な果汁に、石臼で挽き潰した胡桃(くるみ)。そこへ少量の岩塩とミントの葉を加えた特製の調味液である。


 ――やがて夜が更け、厨房の火床が赤黒い熾火へと変わる頃。

 シャハラはシシ・ケバブとは違う料理を作り始めた。「『柘榴と胡桃の仔羊焼き(ケバブ・トルシュ)』よ」

 鉄串に刺さった肉塊から透明な脂が滴り、火に落ちてじちじちと爆ぜる。立ち昇ったのは、精神を惑わすほどに官能的な匂いだった。

 宮廷の厨房で焼かれる羊肉といえば、獣臭さを消すために、鼻を刺すようなクミンや大量の唐辛子がこれでもかと塗りたくられるのが常だ。

 匂いを嗅ぐだけでカムランの胃を萎縮させたが、今シャハラが焼き上げている串焼きからは、そうした刺すような刺激臭は一切しない。

 鼻腔をくすぐるのは、深みのある甘酸っぱい芳香と、煎りたての木の実が放つ香ばしい香りだった。

「スパイスを使わずに、どうやって羊の癖を抑えるのだ?」

「柘榴を使う」

「果物を?」

「柘榴の果汁が、仔羊の肉の繊維を柔らかくほぐしてくれる。そしてすり潰した胡桃の油分が肉の表面に膜を作って、旨味を含んだ肉汁を中に閉じ込めるの」

 シャハラは長い鉄串を器用に回しながら、上機嫌に言った。

 焼き上がった肉は、柘榴の色を吸って妖艶なまでの深紅を帯びた褐色に染まっていた。表面を覆う胡桃の粒がパチパチと心地よい音を立て、熱で極上の衣に変わっている。

 シャハラが鉄串から肉を外し、皿に盛り付けて差し出した。

 カムランがナイフを入れると、肉は抵抗らしい抵抗もなく容易く切れた。断面からは、閉じ込められていた肉汁が堰を切ったように溢れ出す。一切れ口に運んだカムランの瞳が、歓喜で見開かれた。

「柔らかい。これは本当に羊の肉なのか」

 咀嚼するたび、口の中で肉が雪のようにとける。

 氷高羊の弾けるようなピュアな旨味。それを、柘榴の気品ある酸味と、胡桃の濃厚でクリーミーなコクが包み込んでいる。

 辛味は一切ない。果実と木の実という大自然の理が編み出した重層的な味わいは、いかなるスパイス料理よりも深く気高く彼の味覚を支配してゆく。

「美味い……美味すぎる。腹の底から、じんわりと熱が湧いてくるようだ」

「柘榴は血をきれいにするし、胡桃は栄養価が高い。あなたに必要なのは、胃を痛めつけるスパイスではなく、身体に染み入る栄養ね。次も食べて」

「次?」

「私の料理は、一口ごとに表情を変える」

 促されるまま、カムランは二切れ目に手を伸ばした。

 よく見ると肉と肉の間に熱で外側が香ばしく焦げ、内側がとろけた琥珀色の肉片――いや、果実が挟み込まれている。干し杏だった。肉とともに杏を口に含んだ瞬間、カムランは目を見張った。

「これはなんという……!」

 一切れ目の洗練された酸味から一転し、口内を満たしたのは脳を溶かすような濃厚な甘味と、胸がすくような清々しい香りだった。

 熱を帯びた干し杏が、咀嚼するたびに仔羊の桃色の肉汁と混ざり合い、王侯貴族が好む極上のチャツネ(果実ソース)のごとく舌を包み込む。さらに鼻腔を抜けていくのは、木漏れ日を思わせる涼やかで気高い煙の匂い。

「スパイスは一粒も足してない。足したのは、砂糖が買えない庶民が使う干し杏。ついでにかまどの熾火に、さっき毟ったミントの『残りの茎』を燻(くす)ぶらせたの」

 シャハラはふふっと喉を鳴らした。

「乾いた杏の凝縮された糖分は、仔羊の旨味を何倍にも膨らませる。ハーブの香りを『煙』として肉の表面にまとわせれば、胃を刺激することなく、獣の匂いだけを洗い流せる」

「煙をまとわせる。その発想はなかったな」

「どう? これなら飽きずに、いくらでも食べられるでしょ」

「飽きるどころか……一串すべてが、完璧に計算された芸術品のようだ」

 カムランは陶酔じみたため息をつき、皿に残ったハーブの燃え殻の匂いすら愛おしそうに吸い込んだ。

 富の象徴たる高級スパイスをあざ笑うかのような、乾物と廃物から生み出された奇跡の味変。

 この少女の指先から繰り出される理(ことわり)の前に、カムランは己の胃袋だけでなく、魂そのものが囚われていくような心地よい敗北感に浸った。

 肉を食べる皇子の姿を見つめながら、シャハラは満足そうに顎を引いた。

 その瞳には、自らの知識と技術で帝国の常識を打ち破る、料理人としての自信と誇りに満ちていた。



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