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シャハラと兵站皇子の盤上百味録  作者: kiyoaki
第一章 砂塵の後宮と胃弱の皇子

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第10話 宮廷の影、雛鶏と酸干李の茹でこぼし飯<上>

 外廷の巨大な書庫。

 そこに隣接する、とうの昔に打ち捨てられた埃っぽい物置部屋で、カムランは卓上のものに目を凝らしていた。

 机の上に乱雑に広げられているのは、彼が奥の機密保管所から密かに持ち出した羊皮紙の巻物――「軍事兵站および地方物資流通方録」であった。

 手燭の揺れる炎を近づけ、丹念に読み込んでゆく。

 カムランの青白い指先が、記された墨の文字を慎重になぞる。彼の頭脳は、瞬時に文字の羅列を立体的な地図へ変換し、その血脈とも言える「街道」の動きを追ってゆく。

「……やはり、どこにも存在しない」

 カムランの唇から、乾いたため息が漏れた。

 シャハラが仔羊の肉から看破した「屠殺されてから三日」という鮮烈な事実――。

 一介の料理人が突きつけた理(ことわり)が、カムランが持つ国家情報と結びついた瞬間、彼の脳裏に帝国の根幹を揺るがす巨大な暗雲が立ち込めた。

 北方高山地帯、万年雪を戴く峰々で放牧される最高級の氷高羊。その肉が、通常の交易ルートを経て帝都へ至るには、主要な関所を三箇所通過せねばならない。

 険しい岩山に穿たれた「黄鉄門関」、広大なラカン砂漠が始まる「白砂門関」、そして帝都の喉元たる「双子門関」である。

 もし、あの見事な肉が第三皇妃の「薔薇の宮」へ正規の手段で届けられたのであれば、これらの関所で通行税が課せられ、流通方録に記録が残されていなければならない。

 だが、ここ数か月の記録をどれほど血眼で遡ろうとも、第三皇妃の実家である有力貴族「ミフラーン家」、あるいはその息のかかった商人たちが、氷高羊の輸送を行った形跡は存在しなかった。

 それはすなわち、あの極上の肉が「国家の眼」をすり抜け、闇に紛れてこの帝都の心臓部まで運び込まれたことを物語っていた。

(十日かかるはずの道のりをわずか三日で。しかも、帝国のすべての関所を通らず……?)

 カムランは、疑惑が一つの答えに収束していくのを感じた。

 あの道を使えば可能だろうか。

 帝国の版図を広げた先々代の皇帝が、北方の蛮族を急襲するために十年の歳月と数万人の奴隷の命を費やして極秘裏に開削させた隠密の行軍路――「黒の回廊(カラル・ラダン)」。

 険しい岩山の内部をくり抜き、古代の地下水脈の跡を伝うルートは、一般の地図には決して記載されず、軍の最高幹部のみが知る国家機密である。しかも回廊は皇帝の死後、大規模な落盤によって閉鎖されたはずであった。

 その「黒の回廊」が、今や特定の一族のための私道として密かに復旧され、利用されている。

 大半は地下道であるため、内部の気温は低く保たれているはずだ。温度変化に弱い氷高羊を生きたまま都の近くまで運べるのかもしれない。地上に出る際に屠殺して、夜のうちに都に運べば鮮度を保てる。

 地方の軍閥(総督)は、中央の有力貴族――すなわち第二皇子ザイード派へ極上の物資を融通することで、中央での確固たる地位と発言権を買う。対するザイード派は、その隠された物流ルートを利用して、いつでも現体制を覆せるだけの軍事的な切り札を握る。

 国家の命脈を支える兵站の根幹が、白蟻に喰い荒らされるように、内側からボロボロに腐敗しつつあるのだ。その事実を思うと背筋が寒くなる。


 ふと、物置部屋の扉が音もなく開き、小さな影が飛び込んできた。

「叔父上、夜回りの兵が来ます」

 緊張を孕んだ甲高い声だった。

 ヴェールを被った少女――兄アルマンの娘であり、カムランの姪にあたるヌルルだった。くりくりとした大きな目を不安げに瞬かせている。

 第一皇子アルマンとその家族は軍務で地方に赴任しているが、ヌルルは行儀見習いの名目で祖母のラミア皇妃に預けられていた。

 今年十二歳になる彼女は、愛らしい姫君の顔をしつつ、裏では後宮とカムランを繋ぐ連絡係を果たしている。カムランが動く際にも、周囲を警戒したり、衛兵の目を逸らしたりして協力してくれる数少ない身内であった。

「ああ、すぐに出る」

 カムランは羊皮紙を素早く巻き取ると、黒衣の内側に隠した。何食わぬ顔で機密保管所へ戻り、記録を元の場所へ収めると、書庫の裏手へすべり出た。

 ヌルルと別れ、黄昏の砂宮の厨房へ向かった。


 ***


 厨房のかまどの火は赤黒い熾火(おきび)となって燃え、鍋の中では何かがかすかな音を立てていた。

 先ほどまで女たちが貪っていた羊の脂の残香が、室内に重く沈殿している。シャハラは一人、月明かりを浴びながら包丁を研いでいた。砥石と鋼が擦れ合うシュッシュッという規則正しい音が響く。

 彼女は入って来たカムランの気配を感じても、包丁を動かす手を止めなかった。

「……何かわかった?」

 その落ち着いた声音は、彼が真実を持ち帰ることを確信していたかのようだった。

「ああ。お前の見立ては、私の調べた情報と完全に一致した」

 カムランはゆっくりと歩み寄った。

 彼の瞳には、普段の「無能で無害な皇子」の仮面を脱ぎ捨てた鋭利な知性と野心の光が宿っていた。

「先日の下賜品は、帝国のいかなる関所も通過していなかった。第二皇子ザイード派は、軍事用隠密路『黒の回廊』を使ったと思われる。お前が暴いた『屠殺から三日』という鮮度は、地方軍閥と中央貴族が結託した国家反逆の揺るぎない証拠……」

 そこでカムランは言葉を切り、首を横に振った。

「いや、これは私の願望だな。国家反逆の証拠とまでは言いきれまい」



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