第11話 宮廷の影、雛鶏と酸干李の茹でこぼし飯<下>
シャハラは手を止め、カムランの方を振り返った。
天窓から差し込む月光が、彼女の色素の薄い肌と瞳を半分だけ照らし出す。
「軍用路を密輸にね……」
シャハラの唇が、皮肉っぽく弧を描いた。
「国を守るための盾を、自分たちの胃袋を満たすために使うなんて」
「笑い事ではない。これは、第二皇子ザイード派がいつでも帝都の喉元に、完全武装した軍勢を伏せられるということを意味している。その気があれば政変を起こせるということだ。宮廷の誰もが、自分たちの足元に罠が仕掛けられていることに気づいていない」
カムランの言葉は、国内の混乱を予感させるような緊迫感に満ちていた。
「不思議ね」
シャハラは研ぎ上がった包丁の刃先を、指の腹でそっとなぞり、その鋭さを確かめるように呟いた。
「私は料理人として食材の声を聴いただけ。それが、あなたの持つ地図と重なった途端、帝国の骨組みを揺るがす軍事機密に化けるなんて」
カムランは彼女の言葉に、魂が震えるような奇妙な興奮を覚えた。これまで彼にとって兵站や軍事記録は、ただの数字と文字の羅列でしかなかった。
書庫の暗がりでそれらを眺めても、宮廷のどこで誰が私腹を肥やし、どこから国が腐っていくのかという生々しい実感を伴うことはなかった。
だが、シャハラという料理人の「目」と「技術」が加わったことで、死んでいたデータが明確な叛意と血の匂いを伴って動き出した。彼女の分析は、国家の命脈を解剖し、その病巣を探り当てる鋭利なメスだった。
「私たちは、とんでもない深淵を覗いてしまったのかもしれないな」
カムランは少し不安そうに微苦笑した。
「この不正を知ってしまった以上、私はもう『暗愚で無害な皇子』のふりをすることはできない。陥穽の闇に足を踏み入れて破滅するか、あるいは……」
「不正の大元を暴いて、すべてをひっくり返すか」
シャハラが確固たる意志を込めて言葉を継いだ。
「何にしても時機を見計らわないといけない。今騒いだところで益はない。このことは他言無用だ。決して誰にも言うな」
「わかった」
シャハラは包丁を調理台の上に置くと、穏やかな料理人の顔に戻った。
「それはそれとして。ごはんは食べたの? お腹空いてない?」
「あ、ああ……」
指摘されて初めて、カムランは己の胃の腑がきゅっと縮み上がっていることに気がついた。調べものに夢中になるあまり、空腹を忘れていた。
「米料理を炊いているの。食べる?」
「いただこう」
そう答えつつも、彼は米料理と聞いてつい身構えてしまった。宮廷においては、米料理もまた富とスパイスの象徴である。
晩餐の大皿に盛られた米には、羊の濃厚な脂とサフランがこれでもかと染み込ませてあり、一口食すだけで唇と口内がぎとぎとになる。男たちは喜んで食べるが、カムランにとっては一口ごとに胃の腑が鉛で満たされるような苦行の味だった。
ゆえに、シャハラが鍋から素焼きの平皿に盛って差し出したそれを見たとき、彼は目を疑った。
「これは米なのか? まるで磨き上げられた白磁の細工のようだ」
皿の上に盛られた細長い米は、一粒一粒が完璧に自立し、ふかふかと空気を含んで盛り上がっていた。
脂のぎらつきは一切ない。純白の米粒の間に散らされた緑のハーブ――ディルの繊細な葉が美しいコントラストを描いている。湯気とともに立ち上がるのは、胸がすくような清涼な香りと、鶏から煮出した出汁の匂いであった。
「油をたっぷりと吸わせた米は辛いでしょ。だから米が持つ『重さ』を捨てたの」
シャハラは自らも木匙を手に取った。鍋の中身をすくうような仕草をする。
「たっぷりのお湯に塩を入れて、米を躍らせるように茹でる。澱粉の重いぬめりが出たところで、一度そのお湯をすべて捨ててしまう。『茹でこぼし飯』よ」
彼女はかまどの奥で保温されていた小さな鍋を持ってきた。
「お湯を捨てて軽くなった米に、今度は鶏の出汁を吸わせて蒸し上げるの。出汁は雛鶏の骨を沸騰させないように付きっきりで煮出して、浮いてきた脂とアクを一滴残らず掬い取ったもの。もちろん出汁を取った後の鶏肉も無駄にしない」
シャハラが小さな土鍋の蓋を開けると、そこには黄金色のとろみのある煮込み料理が湯気を立てていた。
「具はなんだ」
カムランが鍋を覗き込む。
「白ナスと雛鶏の叩き肉、酸干李よ。これをお米にたっぷりとかけて召し上がれ」
カムランは言われるがまま、純白の米と琥珀色の煮込みを匙ですくい口へ運んだ。
――軽い。咀嚼した瞬間、あまりの軽さに脳が飛ぶような錯覚を起こす。
過剰な澱粉質という「枷」を外された米は雪のように軽やかで、そこに煮込んだ野菜と肉の甘みと酸味が絡みつく。
皮を剥いて火で炙り、とろとろに煮込まれた白ナスは、噛む必要すらないほどなめらかだ。
何より彼の舌を驚かせたのは、市場の隅で叩き売られている酸干李がもたらす果実の酸味だった。
「美味い……。水のように喉を通る」
「酸っぱい干し李は胃の働きを助け、内臓を目覚めさせる。これは身体が喜ぶ料理よ」
とろける茄子の甘み、李の穏やかな酸味、鶏の純粋な旨味、そしてディルの清涼感。
それらが口内で完璧な調和を生み出し、彼の味覚を狂おしいまでの幸福感で満たしてゆく。
無心で匙を動かすたび、腹の底が熱を生みだし、指先まで満ちていくのがわかる。食べれば食べるほど元気になる味だ。
「シャハラ……お前はすごいな」
感嘆の息を漏らすカムランに、シャハラは無言で微笑むのだった。




