第8話 不自然な肉の鮮度と柘榴と干し杏のケバブ・トルシェ<上>
大帝国の空を覆う熱砂の帳は、季節が深まるにつれて残酷な威力を増してゆく。
太陽は容赦なき白金の刃となって宮城の壁や瑠璃色の甍を焼き、城壁の外に広がる砂漠は一切の生命を拒絶する灼熱の海と化していた。
カムランが、夜闇に紛れて砂宮の厨房へ足を運ぶようになってから幾日かが過ぎた。
彼は主厨房から運ばれる晩餐を早々に切り上げると、書庫に向かうふりをして密かに抜け出し、食材を持ってシャハラの元へ通うのだった。
その日の夜、厨房は女たちの歓喜のざわめきに満ちていた。
「見て、アニサ王女。お肉よ。本物の羊の生肉だわ」
興奮で頬を紅潮させたジリが、掲げ持った木箱を厨房の木卓に置いた。
それは本宮の「薔薇の宮」に君臨する第三皇妃パルヴァネから下賜されたものだった。
パルヴァネは帝国の名門貴族であるミフラーン家の出身で、第二皇子ザイードの母でもある。実家の強力な後ろ盾もあって、後宮では一大勢力を築いている。
後宮においては、上位の妃が自身の権勢と気まぐれな慈悲を誇示するために、余った高級食材を下位の宮へばら撒くという悪趣味な慣習が存在する。
とはいえ、最下層の砂宮の女たちからすれば権力者の思惑などどうでもいいことだった。
高級な食材が手に入り、美味しいものが食べられるならそれでいい。
木箱の蓋が開けられると、見事な羊肉の塊が山と積まれていた。端肉とはいえ、最高級の仔羊である。鮮やかな赤身と、白く艶やかな脂身が美しい層を成している。
乾燥した豆と古びた油しか与えられてこなかった女たちには、神が遣わした奇跡の賜物のように見えた。
「素晴らしいわ。これを焼けば大御馳走よ」女たちは一斉に歓声を上げた。
カムランも見事な肉塊を無言で見つめた。
確かに極上の品だ。皇位継承権を持つ上位の皇子たちが日々口にしているものと遜色ない。第三皇妃も随分と気前のいいことだと思う。
シャハラは特上肉を前に、違った反応を見せた。
研ぎ澄まされた肉切包丁を握る彼女の顔に、わかりやすい喜びの色はない。
彼女は肉を持つと、それを目の高さに掲げた。指で肉の表面を押し、弾力を確かめる。次に鼻を近づけ、目を閉じて深く息を吸い込む。医者が病人を診察するような、あるいは尋問官が罪人の嘘を暴こうとするかのような一切の隙がない動作であった。
カムランが怪訝そうに眉をひそめ、歩み寄る。
「どうした。第三皇妃からの下賜品に毒でも仕込まれていたか」
カムランの問いに、シャハラは静かに目を開いた。
「いいえ。毒の類は一切混入していない」
「ならば何故、検死でもするような目で肉を見つめている」
「……不自然だから」
「不自然?」
シャハラは、包丁をなでるように振るった。
鮮やかな手首の返しと共に、肉塊が真っ二つに切り裂かれる。彼女は瑞々しい切り口をカムランに向けて見せた。
「殿下。この肉がどこで育ったものかわかる?」
カムランは切り口を覗き込んだ。
「私は料理人ではないゆえ、食材には詳しくないが……これほどきめ細かく脂が雪のように白い羊となれば、帝国の北限、寒冷な高山地帯で放牧された『氷高羊』だろう。宮廷でも最上級の晩餐にしか出されない稀少な肉だ」
「当たり。では殿下、もう一つ。その北限の高山地帯からこの帝都まで、正規の街道で運ぶと何日くらいかかる?」
「どんなに馬を飛ばしても十日はかかるだろうな。険しい岩山と昼は灼熱、夜は極寒となるラカン砂漠を越えねばならないからだ」
「そこが、変」
シャハラは切り裂いた肉の断面を指先でなぞった。
「人の舌は、強い調味料やスパイスを使えば誤魔化すことができる。でも肉の鮮度は誤魔化せない。通常、生肉が十日もの長旅を越えるためには、大量の岩塩で塩漬けにするか、香辛料を擦り込んで乾燥させるか、あるいは分厚い脂で完全に密閉するしかない」
彼女は真珠のように白い脂身を指で押した。
「なのにこの肉はどう? 脂身は変色していないし、赤身にはしっとりとした水分が保たれている。氷詰めにして送ったのかもしれないけど、一度凍らせて解凍した肉は切ったそばから大量の血水が流れ出すはず。なのに、それもない」
砂宮の女たちは、シャハラの語ることが理解できずぽかんとしている。
「それがどうかしたの?」
ジリが困惑したように呟いた。
反対に、カムランの顔色は劇的に変わった。
多少なりとも帝国の内部や裏側を知る彼は、シャハラが指し示した事実に戦慄したのである。
「お前たちはもう下がれ。この肉は調理して、きちんと分配する」
カムランは女たちに退室を命じた。ジリを含め、女たちは不満そうな顔をしたが、皇子の命令に逆らうことはできない。
毎晩のように通ってくる第十二皇子は、アニサ王女にご執心なのだ。早く二人きりになりたいのだろうと考え、おとなしく厨房を出て行った。
扉が閉まり、厨房に二人きりになると、カムランは声を潜めた。
「……ありえない。この季節、この乾燥と熱の中でいかなる保存処理も施されていない生の肉が、これほどの鮮度を保てるはずがない」
「その通り。この肉の弾力、脂の艶、かすかに残る死後硬直の抜け具合。おそらくこの羊は、屠殺されてから『三日』程度しか経っていない」
「三日」という単語が、カムランの内に重く響いた。
「氷高羊を生きたまま都に連れてきたのでは? それなら三日前に屠殺してもおかしくはないだろう」
シャハラは否定の意味で首を横に振った。
「氷高羊は温度変化にひどく弱いの。灼熱の砂漠地帯に入った時点で衰弱して死んでしまう。標高の高い高原でしか生きられない。だから貴重で高価なのよ」
「しかし、それでは。そんなまさか……」
十日かかるはずの道のりを、わずか三日で走破する。
それは帝国が誇る早馬の伝令すら不可能な速度である。ましてや、重い荷馬車を引いてなど到底あり得ない。
ならば答えは一つしかない。
「第三皇妃パルヴァネは、羊肉を運ぶのに正規の街道を使っていない。いや、第三皇妃――ひいては第二皇子ザイード派というべきか」
カムランの声は、地を這うように低まった。




