第7話 胃に優しいマース・クフタとカムランの野心<下>
「さあ、どうぞ」
差し出されたのは、昨日と同じ素朴な木椀だった。
その中に鎮座する料理は、古びた厨房には似つかわしくない、えも言われぬ美しさを放っていた。
乳白色のなめらかなスープの海に、緑のハーブが点々と覗くふっくらとした肉団子が浮かび、仕上げに落とされた黄金色のバターがきらきらと輝いている。
カムランは息を呑み、木匙を手に取った。肉団子に匙を入れると、力を込めるまでもなくフカッと柔らかく崩れる。
崩れた肉をスープと共に口に運んだ。
「これは……」
カムランの身体に衝撃が走った。
美味い。いや、そんな単純な言葉では到底表現しきれない。
口に入れた刹那、肉団子は儚くほどけ、豊かな鶏肉の旨味となって舌の上を転がった。練り込まれたミントの清涼感が、肉のコクをこれ以上ないほど上品に引き立てている。
それを包み込むヨーグルトソースのまろやかな酸味。
油の重さは微塵もないのに、バターのほのかな風味が圧倒的な「食べ応え」を演出している。温かな液体が喉を通り、胃の腑へ落ちていった瞬間、臓腑が歓喜の声をあげて迎え入れるのを感じた。
「信じられない……。肉を食べているのに、胃がまったく重くならない。むしろ軽くなるようだ」
「チーズの塩気と乳のコクが、あなたの胃を優しく守ってくれる。それにひよこ豆の粉が肉の水分を閉じ込めるから、パサつかずに消化しやすいの」
カムランは取り憑かれたように匙を動かした。
一切の無駄がない奇跡のような美味。
大帝国じゅうのあらゆる食材を集めた晩餐会でも、これほど心が震え、身体の芯まで満たされる料理には出会ったことがなかった。
二度もおかわりをして、最後の一滴までスープを啜り、椀の底を舐めるようにして完食すると、至福の息を吐き出した。
「決めたぞ」
カムランは、瞳に強い光を宿らせてシャハラを見つめた。
「これからは、主食はここで食べる。食材を持って毎晩ここへ来ることにしよう。お前の料理が、私に安らぎと活力を与えてくれる」
「……お気に召したようで光栄です、皇子殿下。素晴らしい食材をお持ちいただけるのでしたら、料理人としてこれ以上の喜びはありません」
シャハラが一歩引き、慇懃かつどこか他人行儀な声で礼を言うと、カムランは心外そうに眉をひそめた。
「かしこまらなくていい」
「でも……あなたは帝国の皇子殿下ですし」
「お前もファルハの王女じゃないか。私は十二番目だし、たいした身分差はない。二人きりの時は、気の置けないお前自身の言葉で話せ」
シャハラは彼の真摯な顔を見つめ、やがて亡国の姫君という窮屈な仮面を脱ぎ捨てるように、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「わかった。そうする」
頷くと、二人の間に温かな空気が流れた。
「さっきから思っていたが、お前は料理や食材のことになると随分と饒舌になるな」
カムランが何気なく言うと、シャハラは虚を突かれたように目を丸くし、それから恥ずかしそうに俯いた。
「……それしか知らないから」
「私も世間のことはわからない。書物に書かれていることなら、そこそこ自信があるが。得意な話題だったらこれからも話してくれるか」
「それは……ええ」
シャハラはこくりと頷くと、照れくさいのを誤魔化すように立ち上がった。
「あなたに飲んでほしいものがあるの」
かまどの傍に置いてあった土瓶を持つと、素焼きの杯に熱い液体を注いだ。
「せっかく温まった胃袋だもの。冷めないうちにこれを飲んで」
湯気と共に立ち昇ったのは、仄暗い森の土を思わせるハーブの香気と、熟れた果実の甘やかな匂いだった。
カムランは品よく香りを嗅いだ。
「茶、か? 茶葉は金と同じ重さで取引されるはずだが」
「そんな大層なものじゃない。これは地封茶よ」
「地封茶……」カムランは視線で続きを促す。
「使ったのはタイムとミント。それから麻袋の底に転がっていた、固すぎて誰も噛めない干しナツメヤシ。ハーブは火で一瞬だけ炙って青臭さを飛ばしてある。ナツメヤシは細かく刻んで水からじっくり煮出したの。砂糖を使わなくても、果実の天然の甘味が溶け出しているから甘いの」
カムランは半信半疑のまま、素焼きの杯を唇に当てた。
温かい液体が口内に滑り込んだ瞬間、彼は感嘆した。
これも美味い。舌を包み込むのは、ナツメヤシから抽出された、蜂蜜を焦がしたかのような滋味深い甘みだ。
その甘みをタイムのきりりとした清涼感が追いかけ、肉の余韻が残る口の中をさっぱりと洗い流してゆく。飲むごとに、消化の歯車がなめらかに回り始めるのがわかる。
「ただの雑草と干からびた果実が……これほど気高く、優しい味になるというのか」
カムランは残りの地封茶をゆっくりと喉へ流し込んだ。心地よい熱が全身へ行き渡るのを感じた。
「私も自分専用の厨房を持てればいいのだがな」
「持ってないの?」
「ああ。主厨房から運ばれてくる料理を腹に詰めるしかない」
カムランは、どこかふてくされたように木卓に肘をついた。彼は皇子ではあるが、官職に就いているわけではなく、今は宮城の部屋住みのような状態だった。
卓上の手燭の炎を見つめる彼の目に、遠い憧憬のようなものが浮かぶ。胸の奥に秘めている切実な願いを、ぽつりぽつりと吐露し始めた。
「私は来年には十八になる。もう立派な大人だ。早く独立して、この息の詰まる宮城を出たい。行く先は地方でも辺境でも構わない」
シャハラは静かに耳を傾けた。カムランの声には、どこか生き急ぐような焦燥が滲んでいた。
「家族に養われるのではなく、自分の屋敷を持ち、所領から収入を得て暮らしたい。そのためには相応の『地位』が必要だ。そして役職を得るためには、周囲を納得させるだけの『手柄』を立てねばならん。私にとっては最も困難な道なのだが……」
カムランは悔しそうに唇を噛んだ。
現実は厳しい。武官でも文官でも高位の役職や要職の座は限られており、王族や貴族、地方の豪族が血眼になって奪い合っている。
属国の王や帝国に恭順する太守たちは「総督」や「州知事」の地位を維持し、自治権を死守している。
皇帝の血を引く兄弟だけでも数十人おり、後継者争いは日を追うごとに苛烈さを増していた。
「だが、やり遂げねばならない。帝国という獣に内側から食い殺されないためにもしたたかに渡り歩き、手柄をもぎ取らねばならない」
言葉の端々に滲む執念。これは単なる立身出世のためではない。陰謀がうずまく宮廷で生き延びるための生存戦略であった。
「出世しなくてはいけないということね」
「そうだ。シャハラ、お前も手伝ってくれ。私が突き進む道を支えてほしい」
懇願にも似た声に、シャハラはゆるりと首を横に振った。
「私には、料理を作る以外のことはできない」
「それで充分だ。お前が私の貧弱な胃を守ってくれるのなら」
シャハラは少しの間沈黙し、探るような視線を向けた。
「私に断る権利はあるの?」
「断る……?」
カムランは心底意外そうな顔をした。
身分差はないと言ったばかりにもかかわらず、断られる可能性は露ほどにも考えていなかった。
戸惑うカムランに、シャハラは重ねて問うた。
「拒否権は?」
彼は少し考えたが、やがて傲慢な皇子の顔を作ってきっぱりと言い放った。
「ない」
「……そう」シャハラは残念そうに俯いた。
「嫌なのか?」
「そうじゃないけど」
カムランのことは決して嫌いではない。
しかし、またしても権力者の都合に巻き込まれ、利用されるのかと思うと、シャハラの胸には冷たい泥のような憂鬱が広がってゆく。
銀の手錠は外された。けれども手首には、いまだに見えない鎖が幾重にも巻き付いているようだった。
その重さを感じながら、シャハラは誰にも気づかれぬよう密かに息を吐いた。




