第6話 胃に優しいマース・クフタとカムランの野心<上>
砂漠の夜は、すべてを拒絶するように冷厳であり、底深く美しい。天空に撒き散らされた星々が、凍てつく砂礫の上に降り積もったかのようだ。
宮城の最奥に穿たれた「黄昏の砂宮」には、容赦のない砂風が吹きつけ、剥き出しの石壁をバチバチと鳴らしていた。
昨夜、カムランが去っていった暗がりを、シャハラは厨房の窓からじっと見つめていた。彼が残していった「次に来る時」という言葉。それが貴人の気まぐれなのか、それとも真の約定なのか測りかねていた。あの瞳に宿っていた孤高の知性は、偽りではないと信じたかった。
静寂を破るように、ひたひたと足音が近づいてくる。
扉が軋む音と共に、夜の帳を体現したかのような影が滑り込んできた。
厚手の黒の外套を羽織り、フードを深く被っている。カムランだった。
昨日の今日でやってきたことに、シャハラは驚きを隠せなかった。
「もう来たの?」思わず声が裏返る。
「悪かったか?」
カムランは不思議そうに眉を寄せた。
「そうじゃないけど……」
今夜の彼は、両手にずっしりと重そうな包みを抱えていた。軽く息を弾ませながら包みを木卓の上に下ろした直後、再び扉が開いた。
今度は大きな木箱を二つ抱えたバヒジが入ってきた。
バヒジは木箱をドスンと置くやいなや、カムランに向き直り、顔をしかめて苦言を呈した。
「殿下。これほどの品を運び込むのは、いくらなんでもやりすぎかと存じますが」
「黙れ」
カムランは低く一喝した。鋭い眼差しで大男を射抜く。
「バヒジ、貴様がここの女たちへの支給品を掠め取り、私腹を肥やしていることは周知の事実だ。私が一言上奏すれば、お前は夜明けを待たずに城壁に吊るされるぞ」「ひっ! は、ははあ……っ!」
途端にバヒジは目を白黒させ、巨体を丸めて拝むように平伏した。
カムランはこの強欲な男の弱みを握り、脅して黄昏の砂宮へ入り込んだのだ。ついでとばかりに、大荷物すら運ばせている。
シャハラは、カムランが持つ別の顔を見たような気がした。
「去ね」
カムランが命じると、バヒジは奥のシャハラを一瞥し、逃げるように出て行った。
厨房に二人きりになると、カムランは包みの結び目に手をかけた。布が解かれると、中から現れたのは新鮮な食材の数々だった。
白く艶やかな羊のバター、雪のように清らかな山羊の生チーズ、陶器の壺にたっぷりと満たされた濃厚な純乳。
それから、つい先ほどまで息をしていたのだろう、羽毛を丁寧に毟られた瑞々しい若鶏。木箱の中には上質の小麦粉や米、岩塩や砂糖、乾燥させた香草がぎっしりと詰まっていた。
カムランが、本宮の主厨房から自らの権限で持ってきたものである。
「昨夜の礼だ」
「ありがとう。こんなにたくさん……」
シャハラは食材の放つ豊かな香りに包まれ、喜びの声を上げた。
昨夜作った麦粥がこんな豪華な食材に化けるとは思わなかった。料理人としての血が熱く騒ぎ始める。
「これならいろんな料理が作れる」
すると、カムランはわずかに視線を彷徨わせた。端正な横顔に、隠しきれない躊躇いの色が浮かぶ。
「……それなら、これで何か食べ応えのあるものを作ってくれないか」
彼は小さく咳払いをし、気恥ずかしそうに付け加えた。
「ただし、香辛料は控えめに頼む。舌を焼くような強いものは、できれば使わないでほしい」
「苦手なの?」
「そうではないが、生来胃が弱くてすぐに腹を壊してしまうんだ。ゆえに伝統的な宮廷料理はなかなか受け付けなくてな。その、皇子らしくない……と思うだろうが」
消沈したように声が小さくなる。
言葉の裏に滲んだ重い引け目を、シャハラは敏感に感じ取った。
アルザ・ヴァーンドにおいて香辛料は、単なる調味料を超えた絶対的な存在である。周辺の国々を武力で蹂躙し、奪い取ってきた富の結晶――すなわち「征服」と「国力」の象徴なのだ。
過剰なまでのスパイスを贅沢に使った料理を思う存分食べられることこそが、王者の証であり、強者の特権だった。これらを豪快に平らげてこそ男であり、武人なのである。
それができないカムランの繊細な胃腸は、軍部の猛者たちから見れば「軟弱」であり「不甲斐ない劣等種」に他ならなかった。
カムランは主厨房で作られる辛いスープや味の濃い宮廷料理は極力避け、普段はパンや乳製品、野菜や果物、乾物などを食べてしのいでいる。が、これだけではやはり味気ない。肉や魚を使った、がっつりしたものも食べたかった。
カムランの懸念に対し、シャハラはからりと小気味のよい調子で言った。
「安心して。香辛料なんてここにはない。ないものは使いようがない」
「……え?」
「私は賄いで食べていたから味はわかる。でも、本来香辛料は王族や富裕層だけが口にできるもの。今ここにあるのは、野生のハーブと塩くらい。だからお腹を壊す心配もない」
カムランは、不意を突かれたように彼女の顔を見つめた。
シャハラの声には、彼を慰めようとする湿っぽい同情は微塵もなかった。事実を淡々と述べただけだった。胃弱だからといって、彼女は自分を「男らしくない」「頼りない」とは見なさないし、馬鹿にもしない。
その事実だけで、深い泥沼から救い上げられたような安堵感が広がる。
「……そうか。ならば鶏肉料理がいいな」
カムランの顔に、初めて年相応の穏やかな微笑みが浮かんだ。
シャハラは腕をまくると、料理人の顔になった。
薄緑の瞳には、逆境すら楽しむ不敵な光が宿っている。
「『香草肉団子の温乳酪煮』を作る。ハーブをたっぷり練り込んだ肉団子の温かいヨーグルト煮込みよ。油に頼らず、肉の旨味を極限まで引き出してあげる」
「肉団子か。悪くない」
カムランの目が期待に輝くのを見て、シャハラはかまどへと振り返った。
「さあ、戦の始まり」
シャハラは小刀を手に取り、見事な手際で鶏をさばき始めた。鶏肉から皮と余分な黄色い脂身を徹底的に削ぎ落とす。残ったのは、淡い桃色をした胸肉と弾力のある赤身だった。
それを木のまな板の上に乗せ、二本の包丁を両手に持って凄まじい速さで叩き始めた。タタタタッと小気味よいリズムが厨房に響く。肉をただのミンチにするのではなく、包丁の背で叩くことで繊維を細かく寸断し、口の中でとろける極上の食感を仕込んでゆく。
叩き上げた肉に、ミントの葉と包みの中にあったパセリを細かく刻んで投入する。さらに繋ぎとして、ひよこ豆の粉を加えた。
「ミントを入れるのか? 肉料理に?」
不思議そうに覗き込むカムランに、シャハラは手を止めずに答えた。
「ミントは肉の臭みを消すだけじゃない。あなたの胃をほぐして、消化を助ける薬草でもある」
さらに、山羊の生チーズをほんの少し擦り下ろして混ぜる。それを手のひらで丸め、大ぶりの美しい球体へ成形していった。
続いて、この料理の命であるスープの調理に入る。
かまどの鍋に注がれたのは、カムランが持ってきた濃厚な純乳と、仕込んでおいた酸味のある自家製の乳清だった。
通常、乳製品は火にかけるとタンパク質が凝固し、分離してボソボソとした不快な塊になってしまう。それを防ぐため、シャハラは鍋に岩塩を加え、ごく弱火でゆっくりと一定の方向に木匙を回し続けた。
「火加減がすべて。煮立たせてはだめ。熱で急激に固まらないよう体温を移すように優しく温めるの」
水と火を操る、静かなる錬金術。
数分後、鍋の中の白い液体は分離するどころか、シルクのように滑らかで、とろみのある極上の温製ソースへと昇華した。その清らかな白い海の中へ、成形したハーブ肉団子を滑り込ませる。
弱火のまま、じっくりと肉の芯まで火が通るのを待つ。
肉団子から染み出す鶏の肉汁がヨーグルトソースの爽やかな酸味と溶け合う。
厨房内に何とも優しく、濃厚な香りが立ち込め始めた。




