第5話 第十二皇子カムランの憂鬱<下>
厨房に戻ったシャハラは、かまどの前に立ち、素早く思考を巡らせた。
あの倒れていた男が何者かはわからない。だが、上等な絹の衣服とビロードのマント、手入れされた黒髪、そして何よりあの「冷めた眼差し」が、彼女の心に奇妙な波紋を呼んでいた。
とにかく彼が食べられるものを作らねば。
胃が弱っている人間に、油や辛いスパイスは厳禁である。必要なのは、消化によいものと臓腑を温める穏やかな熱。
シャハラは、厨房の棚から一切れの「干し肉」を取り出した。塩漬けにして極限まで乾燥させた、保存用の羊肉だ。
これをそのまま煮ると、塩気と獣臭さが際立つスープになってしまう。彼女は小刀を持つと、干し肉の表面の酸化した脂身と筋をミリ単位の正確さで完全に削ぎ落とした。残った純粋な赤身の部分を刻んで、冷たい水を入れた鍋に放り込む。
ここからが、火の番として修練を積んできた彼女の真骨頂であった。シャハラはかまどの薪を巧みに操り、鍋の湯が決して沸騰しないように温度管理を行った。
湯が沸いてしまうと、肉の細胞が破壊され、不要な雑味と濁りが湯に溶け出してしまう。水面がかすかに揺れる程度の温度――人間の体温よりは高く、沸点よりはずっと低い温度を保ちながら、時間をかけて肉の芯から「純粋な旨味成分」を抽出していく。それは、水と火を使った静かなる錬金術であった。
やがて、鍋の中の液体は不純物を一切含まない「澄んだ出汁」へと姿を変えた。
シャハラは出汁から肉を引き上げ、代わりに細かく砕いた挽き割り小麦を投入する。胃に負担をかけないよう、限界まで細かく砕かれた小麦は、黄金色の出汁を瞬く間に吸い込み、柔らかな粥に変化する。
最後に胃の粘膜を保護し、消化を助ける薬効のあるコリアンダーの種をすり鉢で叩き、ほんの微量だけ香りを移す。塩は干し肉の塩分だけで十分だ。火から下ろされた鍋の中は、油が一滴も浮いていない滋養のある麦粥で満たされていた。
壁に寄りかかったまま、カムランはぼうっとしていた。
深呼吸を繰り返すと胃の痛みは収まってきたが、今度は耐えがたい空腹が彼を苛んだ。
そこへ、シャハラが戻ってきた。
彼女の手には、粗末な木の椀と匙が握られている。そこからはかすかに甘く、清涼な香りが立ち上っていた。
「食べられる? 熱すぎず、ぬるすぎない。あなたの体温に一番近い麦粥よ」
シャハラはカムランの背中を支え起こし、その椀を彼の唇に当てた。カムランは素直に椀の中のものを啜った。
「……!」
途端、両眼が驚愕に見開かれた。
それは彼が知るいかなる宮廷料理とも異なっていた。油のくどさも、香辛料の暴力的な刺激もない。研ぎ澄まされた純粋な旨味だけが、胃の腑へと滑り落ちていく。粥は砂漠の砂に染み込む水のように、抵抗なく受け入れられた。
細かく砕かれた小麦は噛む必要すらなく、口の中で撫でるように溶けていく。飲み込んだ後に鼻腔を抜けるかすかなコリアンダーの香りが、胃の筋肉を穏やかに鎮めていくようだった。
身体を癒し、栄養を届けるための一皿。
カムランは自ら椀を掴むと、無我夢中で麦粥を流し込んだ。
一滴も残さず粥を食べたカムランは、深く息を吐き出した。顔には血の気が戻っている。
「……これはまだあるのか?」
やっと声が出た。
「うん」
「なら全部くれ」
シャハラは、今度は鍋ごと持ってきた。
カムランは再び粥が注がれた椀に匙を突っ込み、大盛りにすくって口に運んだ。その後も何度も椀によそってもらい、一気に平らげた。
鍋が空っぽになると彼は言った。
「……これをお前が作ったのか」
「うん。たいした食材はないけど」
シャハラが微笑んで椀を受け取ろうとした瞬間、空気が凍りついた。
カムランの腰から抜き放たれた護身用の短刀が、シャハラの喉元にピタリと突き付けられていた。
先ほどまで冷や汗を流して倒れていた男の面影はない。
猛禽のような冷徹な目が彼女を射抜いていた。
「お前は何者だ」
低く鋭い誰何の声。
同時にカムランは、シャハラの椀を持つ手をじっと見た。
小さな火傷に切り傷、爪の間に見える色素沈着。間違っても王女の手ではない。
「ファルハのアニサ王女、と聞いている。だが常識的に考えて、深窓の姫に料理ができるとは思えない。何よりお前の手……高貴な身分ではありえない使い込みようだ。アニサ王女ではないな」
刃先が薄皮に触れ、かすかな痛みが走る。
シャハラは瞬き一つせず、カムランの薄茶色の瞳を見つめ返した。怯えはなく、命乞いもしない。
「ええ、そう。私はシャハラ。ただの料理人」
「本物のアニサ王女はどうした」
「死んだ。都が落とされた夜、辱めを受ける前に自ら命を絶った」
シャハラの声に初めて、隠しきれない刃のような感情が混じる。
「だから、私が身代わりに仕立て上げられた」
「……」
カムランはシャハラの瞳にある、深い喪失と、決して消えない怒りの炎を見極めるように見つめた。数秒の沈黙の後、スッと短刀を引いた。
「そうか、すまなかった。宮廷には、背乗りして身分を騙る間者や刺客も紛れ込むのでな」
短刀を鞘に収めて素直に詫びるカムランに、シャハラは目を見開いた。
横暴で残虐な帝国人らしからぬ態度に、毒気を抜かれたように息を吐いた。
「……好きでここに来たわけじゃない」
ぽつりと漏れた本音は、宮廷で「虚弱な無能者」と見下され、孤独に生きるカムランの胸に奇妙な共鳴を呼び起こした。
「助かった。礼を言う」
カムランはゆっくりと立ち上がった。
その足取りは確かだった。シャハラのおかげで臓腑が温まり、全身に力が戻り始めている。
「私はカムラン。この国の皇子だ」
十二番目だが、と付け加え、自嘲気味に笑う。
「皇子……?」
驚いて見上げるシャハラに、カムランは背を向けたまま告げた。
「今夜の礼として、次に来る時は何か持ってくる」
カムランの足音が遠ざかっていく。
シャハラは彼が完全に闇に溶けてしまうまで、その場を動かなかった。




