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シャハラと兵站皇子の盤上百味録  作者: kiyoaki
第一章 砂塵の後宮と胃弱の皇子

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第4話 第十二皇子カムランの憂鬱<上>

 ――後宮の夜は、濃密な毒と甘美な虚飾で編み上げられている。


 その日、本宮の大広間では、第一皇妃ラミア主催の豪華な宴が繰り広げられていた。

 百の銀燭台が真昼のような光を放ち、沈香と麝香の入り混じった香煙が、目に痛いほどの濃さで贅沢に焚かれている。

 長大な象牙色の卓には、孔雀の丸焼き、蜂蜜と薔薇で煮込まれた子羊、南方の海から氷詰めにして運ばれてきた珍魚、早馬で運ばせた新鮮な果物など、世界中の富を凝縮した料理の数々が所狭しと並べられていた。

 杯に注がれるのは、ルビーを溶かしたような最高級の葡萄酒である。薄物を纏った踊り子たちが足につけた鈴をシャラシャラと鳴らし、居並ぶ貴族や将軍たちはだらしなく相好を崩して酒と女に酔いしれている。

 その喧騒の片隅で、第十二皇子カムランは、彫像のように固く冷えきった眼差しで自らの杯を見つめていた。

 目の前に料理があるにもかかわらず、彼はひどい空腹を抱えていた。食べ物の好き嫌いはない。小食なわけでもないが、彼は生来の胃弱体質だった。味が濃く香辛料が多く使われた宮廷料理を口にすると、激しい腹痛に見舞われてしまうのだった。

 さらに皇子の食卓は、暗殺を警戒してすべての料理が毒見を経た後に出される。冷めきって脂が白く凝固し、本来の味が殺されてしまった料理を、彼の繊細な胃は受け付けなかった。

 食べれば腹を下すか戻してしまうとあれば、どんな好物であっても手が伸びない。じっと手つかずの皿を見つめるカムランに、下卑た笑い声が浴びせられる。

「おや、カムラン殿下。今宵も食が進んでおられないご様子。ラミア皇妃の折角のお招きであるのに、手をつけないのは不敬ではございませんかな」

 赤ら顔をした第二皇子派の太った将軍が、酒臭い息を吐きながら声をかけてきた。彼を取り巻きの貴族たちが囲み、にやにやと嫌な笑いを浮かべている。

「もしや兄君がおらねば召し上がれないのか。アルマン殿下は今頃、国境の最前線で立派に務めを果たしておられますぞ。それに引き換え、弟君であられる殿下は……宴においても赤子のように縮こまっておられる」

「下賤の者が食べるものしか口に合わないとか? ホホ、血筋は争えないもの」

 取り巻きの一人が放った一言に、ドッと無遠慮な笑いが起こる。

 耳にこびりつくような嘲りに、カムランは膝の上で固く拳を握り締めた。顔がカッと熱くなり、強烈な恥辱が胸を焼き焦がす。

 だが、挑発に乗って声を荒らげれば、彼らの思う壺だ。それこそ大仰に騒いで、ラミア皇妃や他の客にカムランの狭量さを面白おかしく吹聴するだろう。彼はただ俯き、じっと怒りを押し殺すしかなかった。

 将軍たちが立ち去った後、カムランは葡萄酒を一気に呷った。無理矢理喉へ流し込むと、深々と息をついた。

 事実、カムランは己の体質を深く恥じていた。

 勇猛で頑健な兄、第一皇子アルマンに比べれば、なんと不甲斐なく情けないことだろう。アルマンはラミア皇妃が産んだ子で、有力な皇子の一人である。皇帝はいまだ後継者を定めず、皇子たちに功を競わせていた。

 軍事覇権国家であるアルザ・ヴァーンドにおいて、皇子の価値とは即ち「軍功」である。

 軍事侵攻や属国の併呑、蛮族の駆逐、反乱鎮圧などの功績を上げることで貢献し、皇帝の信頼を得て出世していくのが常道だった。強力な外戚や後援者を持たない上、戦地に立つには心もとない体質であるカムランは、折に触れて「無能な虚弱皇子」として嘲笑の的になってきた。

 しかし、カムランは宮廷の誰よりも怜悧な頭脳で、帝国の「実体」を測っていた。

 彼は目の前の皿に乗った魚を見つめた。

 この南方の珍魚を運ぶために何頭の馬が潰され、何人の人夫が死んだのか。将軍たちが食らいついている羊肉はどこから来たのか。国境警備隊の備蓄を横領したものではないのか。

 次から次へと噴出する黒い疑惑で、彼の頭はいっぱいになる。宴に並ぶ料理は、すべて帝国の腐敗と流血の象徴に思えた。

「……吐き気がする」

 誰にも聞こえない小さな声でカムランは呟いた。胃からこみ上げてくる痛みに顔をしかめ、逃げるように大広間を後にした。


 ***


 冷たい夜風が頬を打つ。

 背後の喧騒と光が、一歩遠ざかるごとに薄らいでゆく。カムランは、薄暗い北の回廊をあてもなくさまよっていた。

 本宮ではふかふかとしていた絨毯は、北へ向かうにつれて薄くすり切れ、やがて冷たく固い大理石がむき出しになる。

 壁面を彩っていたモザイク画は無惨に剥がれ落ち、ひび割れた壁の隙間から吹き込む砂風が髪をなぶる。

 警備の兵もまばらになり、等間隔で灯されていた松明の数も減っていく。今のカムランを包み込むのは、不気味な静寂と這い寄るような冷気だった。

 彼が向かっていたのは、宮廷の誰もが忌避する最北の端――「黄昏の砂宮」であった。

 なぜ人質や罪人が住まう砂の流刑地へ足を向けたのか、彼自身にもわからなかった。

 ただ本宮の狂騒の光から逃れたい一心だった。自分を無能と嘲る者たちの目が届かない場所、野心も欲望も枯れ果てた者たちが住まう砂宮だけが、唯一息がつける場所のように思えた。

「殿下、ここから先は……」

 夜勤の宦官が遠慮がちに声をかけてきたが、カムランは青ざめた顔で制し、さらに奥へと進んだ。

 だが、限界は唐突に訪れた。

 黄昏の砂宮の荒涼とした中庭、干上がった池の近くに足を踏み入れた瞬間、カムランの視界が大きく揺れた。

 猛烈な眩暈、そして胃袋を力任せに絞り上げるような激痛が彼を襲った。全身から冷や汗が噴き出し、手足から温度が失われていく。空腹に疲労と心労が重なり、ついに肉体が悲鳴を上げた。

「っ……!」

 声をあげる間もなく、カムランは崩れ落ちた。

 なんとか這うようにして回廊まで行き、柱にもたれかかる。目の前がぐわんぐわんと揺れる。

 朧げな意識の中で、彼は自嘲した。なんと滑稽なことだろうか。帝国の皇子が、食料が有り余っている宮城で倒れるとは。やはり自分は、兄の足元にも及ばない虚弱な半端者なのだ。

 そのまま暗黒の淵へと沈みかけた彼の意識を、かすかな匂いが引き戻した。それは本宮に満ちているむせ返るような香油や、毒見で冷えきった肉の匂いではなかった。何かの香草なのか、清涼感のある潔い香りだった。

「大丈夫?」

 素っ気ない声が頭上から降ってきた。

 カムランが重い瞼を押し上げると、青白い月明かりを背にして一人の少女が見下ろしていた。

 場違いに若く、薄絹のドレスに外套を纏ったその姿は、この荒んだ場所ではひどく浮いて見えた。

 思い当たる節はあった。ファルハの王女アニサ。

 先日、大宰相メリクの軍勢によって攻め滅ぼされ、黄昏の砂宮に入れられたという哀れな人質……のはずだが、朦朧とする意識の中でカムランは違和感を覚えた。

 彼を見下ろす薄緑の瞳には、亡国の王女にあるべき悲哀も、絶望も、あるいは権力者に媚びようとする打算の色もなかった。あるのは冷静で、刃のように理知的な眼差しだけ。

 少女――料理人シャハラは、カムランの傍らに片膝をつくと、青ざめた顔とかすかに痙攣する唇を観察した。

「ひどい冷や汗、それに浅い呼吸。みぞおちを押さえている。もしかしてお腹が痛い?」

「ああ……」

 カムランは呻くように言った。

「胃腸が疲れているのかな。着ている物からして高い身分のようだけど、あなたも人質としてここへ連れてこられたの?」

 ――人質ではない。

 そもそも、男の人質は後宮には入らない。そう言いたかったが、身分を明かす言葉すら発する気力がなかった。

「……お腹空いてる?」

 カムランは問いに黙って頷いた。

「水が飲みたい?」

 カムランは首を横に振った。宴では酒ばかり飲んでしまった。もう冷たいものはいらない。

「待っていて。あなたが食べられそうなものを作ってあげる」

 シャハラはそう言うと、翻るように屋内へ消えていった。


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