第3話 黄昏の砂宮、流刑地の厨房<下>
数分後、驚くべき変化が起きた。
厨房を満たしていた悪臭が魔法のように消え去り、代わりに森の奥を思わせる清涼なハーブの芳香が漂い始めた。
「……え?」
女たちが辺りの空気を嗅ぎ、信じられないというように目を見張る。シャハラは、灰と香草の滓を網で丁寧に濾し取り、濁りのない琥珀色の「再生油」を作り出した。
続いては、石のように固いひよこ豆だ。
通常これほど乾燥した豆を柔らかく煮るには、一昼夜以上の浸水が必要となるが、その時間も惜しい。
ここでも、シャハラの調理の知識が冴え渡った。
彼女は熱した再生油の中に、あえて乾燥したままの豆を投入した。激しい音を立て、豆が油の中で踊る。
水分を完全に失った豆の表面に熱い油を吸わせることで、皮の細胞壁を急激に熱膨張させ、目に見えない無数の微細な亀裂を生じさせるのだ。兵術で言うところの、強固な城壁にあえて熱を加えて脆くする「焼打ち」の計である。
豆の表面が狐色に色づき、香ばしいナッツのような匂いが立ちのぼった瞬間、シャハラは冷たい水を一気に注ぎ込んだ。
激しい湯気と音。急激な温度変化により、豆の皮の亀裂が一気に広がる。
水を吸いやすくなった豆は、通常の数倍の速度で中心部まで熱が通る。かまどの火力を強め、鍋を沸騰させる。鍋の中で豆が崩れ、濃厚な澱粉質がスープの中に溶け出してゆく。
これだけでは単なる「柔らかい豆の汁」にすぎない。
旨味の要素が決定的に不足している。ファルハの宮廷であれば、上質な羊の骨髄スープや、完熟したトマトのペースト、数々のスパイスを加えるところだ。だが、あるのはわずかな岩塩のみ。
ここで、シャハラは「味変」のカードを切った。
中庭で摘んできた野生のルメクス。その葉を包丁で細かく刻み、スープの中へ投入する。
ルメクスに含まれるシュウ酸の強い酸味は、熱を加えることでスープの澱粉質と結びつき、驚くべき化学反応を起こす。単なる「酸味」が、豆の持つほのかな甘みを極限まで引き出し「肉の旨味」とすら錯覚させるような重厚で複層的なコクを生み出すのだ。さらに、仕上げに一掴みの岩塩を加えることで、味が引き締まる。
火から下ろされた鍋から、もうもうと立ちのぼる湯気。
中身はもはや「家畜の餌」ではなかった。タイムの清涼な香りが羊脂のコクを上品に引き立て、煮くずれた豆の濃厚なとろみが、ルメクスの爽やかな酸味と完璧な調和を見せている。肉は一欠片も入っていないのに、肉の煮込みのような圧倒的な香りが回廊へあふれ出した。
「……なんという匂いかしら」
うずくまっていた女たちが、一人、また一人と匂いに引き寄せられるようにして厨房に集まってきた。
その瞳に死人のような諦念はなく、純粋な「飢え」と「驚愕」が宿っている。
シャハラは煤けた木の椀に、黄金色の濃厚なスープをたっぷりと注いでジリに差し出した。
「食べて。冷めないうちに」
王女としての優雅さには欠けるが、素朴で優しい声だった。シャハラの瞳には、料理人としての絶対的な自信が浮かんでいる。
キアンと共に何百回と作ってきたスープだ。素材や味を変え、試行錯誤を繰り返してきた。どうにも懐かしく、今は切なくて仕方ない。
ジリは震える手でお椀を受け取り、熱いスープを口に運んだ。ごくりと一口。濃厚な液体が口腔を満たした瞬間、彼女の身体は小さく跳ねた。
「これは……!」
彼女は貪るように、熱いスープを喉へと流し込んだ。
固いはずの豆は口の中でホロホロと崩れ、芳醇な旨味が舌をとろかす。再生された油は喉を温かく潤し、爽やかな酸味が胃を優しく目覚めさせてゆく。
「美味しい。美味しいわ。こんな温かくて、身体の芯まで染み渡るような食べ物はいつぶりだろう」
ジリの声が呼び水となり、厨房にわっと女たちが群がった。みな我先にとお椀を差し出す。シャハラは淡々と女たちへスープを分け与えた。
しばらくはスープを啜る音と、あちこちから漏れる感嘆の声だけがした。食卓がもたらす圧倒的な「生」の歓喜。それは、大帝国の理不尽な支配によって踏みにじられた女たちの心に、生きるための活力を吹き込んでゆく。
「……この騒ぎは何ごとか」
その時、鋭い声が響き、厨房の入り口に大きな人影が立った。黄昏の砂宮の管理人であり、女たちに配給されるはずの物資を不当に横領し、さらには物資を女たちに売りつけて私腹を肥やしている去勢兵の頭バヒジだった。
バヒジは女たちが喜び、活力を取り戻している様と、厨房を満たす爽やかな香りに驚きの表情を浮かべた。
「アニサ王女、貴殿は高貴な生まれかもしれぬが、ここはアルザ・ヴァーンドの後宮ぞ。このような勝手な真似をしてただで済むと思うな」
バヒジは権力を誇示するように、腰の鞭を鳴らしてシャハラを威嚇した。女たちが恐怖し身をすくめる。
シャハラは一歩も引かなかった。彼女は鍋に残った最後のスープをすくうと、怯むことなく男の眼前に突き出した。
「だったらあなたも飲めば」
「なに……?」
「あなたが管理する厨房の食材が、どれほどの価値を持つものかその身で知るといい」
王女だと思われているなら、誤解されたままの方がいいかもしれない。
シャハラは巨漢を冷たく睨みつけた。冷徹にして傲然たる、支配者のごとき眼差しで男を射る。
バヒジはシャハラの気迫に気圧され、思わず椀を受け取ってしまった。おずおずとスープを口に含んだ。
次の瞬間、鞭を握る手が震えた。
(美味い……!)
声にせずとも目が語る。バヒジはこれまで横領した物資を売り、その金で美食を口にしてきた。
だからこそわかってしまった。このスープが、自身が払い下げたはずの「ゴミ同然の食材」から作られているという事実を、頭では理解できても信じられなかった。
肉の旨味を錯覚させる完璧な構成、スパイスを用いていないにもかかわらず、あの臭みを完全に消し去っている。
それは、一流の宮廷料理人のような食材の本質を知る者だけが到達できる域であり、冷徹なまでの計算のたまものだった。
「これを……貴殿が作ったというのか」
バヒジの呆れたような声に、シャハラは微笑んだ。
「私を罰したければ上に告げ口すればいい。でも黙っていてくれるなら、明日もこのスープを作る。よい食材をくれるなら、もっと美味しいものを」
「くっ……」
男は悔しそうに顔を歪めた。
目の前の娘が作ったこのスープの味を知ってしまった以上、他のどんな料理も味気なく感じられるであろうことを彼の舌は確信していた。
女たちは、シャハラを「哀れな人質」としてではなく、王女でありながら神懸かった料理の腕を持つ者として畏怖と敬意を込めて見つめている。黄昏の砂宮の厨房は、一杯のスープによって制圧されてしまったのだ。
「わかった」
しばらくして、バヒジは力なく言った。
「食材を持ってきてやる。今後は、いかなる料理も余分に作って渡すように」
「承知しました」
バヒジが大股で出て行くと、シャハラはかまどの火を見つめながら、自身の右手を固く握り締めた。
偽りの王女アニサ――いや、料理人シャハラは砂塵にまみれた厨房から、最初の一歩を踏み出した。




