第2話 黄昏の砂宮、流刑地の厨房<上>
後宮とは、世界中のあらゆる富と美姫であふれた黄金の城である。
大理石の回廊には豪奢な絨毯が敷き詰められ、壁面は色鮮やかなモザイクのタイルと精緻なアラベスク模様で飾られている。
夜ともなれば、かぐわしい香油の香りが漂い、銀のランプの灯がゆらめき、甘美な調べのなかに絹の擦れ合う音が溶けてゆく――。それが人々の羨望する帝国の後宮「本宮」の姿であった。
しかし、その絢爛たる楽園の最奥、最も日当たりの悪い北に「黄昏の砂宮」と忌み嫌われる一画が存在する。
そこは、皇帝の寵愛を失った妃、なんらかの罪を得て処刑された高官の遺族、シャハラのような亡国の王族や人質、年老いて働けなくなった下女たちが一緒くたに押し込められる砂の流刑地であった。
本宮からは完全に切り離され、鉄格子が嵌められた窓と分厚く高い塀に囲まれた空間は、後宮という甘美な響きとは程遠い「監獄」そのものだ。
城壁の隙間から吹き込む砂風が乾いた音をたてる空虚な檻。床のタイルはひび割れ、かつては水を湛えていたであろう中庭の池は干上がり、泥と砂が不毛の底を晒している。
黄昏の砂宮に案内した宦官が冷たく言った。
「ここがあなたの新しい住まいだ、アニサ王女。せいぜい帝国の慈悲深さを噛み締めて暮らすがいい」
シャハラの足もとに大きな木箱が置かれる。
中には衣類や装飾品、化粧道具などの身の回りのものが無造作に放り込まれていた。アニサ王女の部屋から略奪してきた品だった。シャハラ自身の私物は――といってもたいしたものはないが――何一つ持ってこられなかった。
シャハラはキアンがくれたお古の包丁や果物ナイフ、毎日使っていた木べらや前掛けなどを恋しく思った。
それでも木箱は今自分が持てる唯一の財産である。特に夜は冷え込むため、毛皮の外套はありがたかった。
シャハラは木箱を抱えたまま、しばらく宮内を歩いて回った。鍵のついた手ごろな部屋を見つけると、そこで暮らすことにした。
荷物を置くと、再び外に出る。
あちこちにしゃがみこんだ女たちが、シャハラをじろじろと見た。ここにいるのは、用済みとして捨て置かれたか、年老いて病み衰えた無気力な女たちばかり。シャハラのような若い娘は珍しい。
女たちはみな、故郷ではそれなりの身分だった。絹の衣服をまとい、ガラスの器で食事をし、使用人にかしずかれて生活していた。今は瞳から一切の光が失われ、自身の不運を呪ってすすり泣くだけの日々を送っている。
だが、シャハラは違った。
王女の皮を被せられた娘の胸中には、燃えるよう……とまではいかなくとも確かな意志が息づいていた。
(……まずは、生き延びること)
彼女は自身の手を見つめた。入れられてしまった以上は、ここで生きていかなくてはならない。頑張って食べて五臓六腑を養い、健康な身体を維持する。ここにある食材を使って食事を作る。
料理人が生きる場所は、いつだって一つしかない。シャハラは、女たちの嘆きの声を背に、砂宮の片隅にある厨房へと足を向けた。
そこは厨房と呼ぶのも憚られるほど荒廃した空間だった。数ヶ月前までは下女たちが食事を作っていたようだが、彼女たちが亡くなってからは使われなくなったようだ。新たな人員が補充されることもなく、厨房は寂れる一方だった。
煤けた石造りのかまどは汚れて灰がこびりつき、鉄の鍋はどれも錆が浮いている。
棚に並んでいるのは、宮廷の主厨房から「家畜の餌」として払い下げられたような、劣悪極まる食材だった。
大きな麻袋の中にあったのは、石のように固く干からびたひよこ豆。陶器の壺の底に固まっているのは、いつのものかもわからないすえた臭いを放つ羊脂の塊。調味料もろくにない。
「ひどいものでしょ」
不意に、ヴェールを被った中年の女が声をかけてきた。
整った顔立ちだが、頬は痩せこけ、肌は乾燥して粉をふいている。どうやらシャハラが気になって後をつけてきたようだ。
女はジリと名乗った。シャハラを亡国の王女、人質と知っているのか、開き直った気安い口調で自己紹介した。
かつて別の属国から献上されて後宮に入ったこと、皇帝に目通りすることもなく若さと美貌を無駄に散らし、しまいにはつまらぬ政争に巻き込まれて砂宮に送られたことを淡々と語った。
「料理人はいないの。今は湯を沸かして飲む程度ね。私たちは、ここで弱って死を待つだけの存在なのよ」
シャハラは尋ねた。
「食材はこんなものしかないの?」
ジリは嘆息しながら頷いた。
「本当は、まともな麦や肉その他が支給されているはずなんだけどね。でもよいものは、全部途中で掠め取られている」
ほら、とジリは外にたむろする宦官や見張りの兵たちの方を見た。砂宮の食材を横領している彼らは、一様に太っている。
「といっても外には持ち出せないから、連中も中で全部食べるしかないんだけど。私たちに与えられるのは、煮ても焼いても石のように固い豆や、犬も逃げ出すような油だけ」
「そう……」
「足掻いても無駄よ、アニサ王女」
ジリの言葉には、抗いようのない諦念が満ちていた。
生まれがよく、台所仕事などしたこともない貴族の姫たちにとって、この状況は絶望的だ。
粗悪な豆はどれほど煮ても柔らかくならず、古びた油は悪臭を放ち、口にすれば激しい腹痛を起こす毒にも等しい。
しかし、シャハラの唇は王女の仮面の下で不敵な弧を描いた。
「横領された後の残りカス、か。でもまあ……食べられないことはないかな」
彼女にとって、食材の質の悪さは調理を諦める理由にはならなかった。確かにひどいものだが、その欠陥を「技術」と「知恵」でねじ伏せることこそが、キアンから叩き込まれた料理人の技であり、矜持だった。
シャハラは荒れ果てた中庭へ出た。
乾いた土壌、城壁の陰。誰もが見落とすような石の隙間に、彼女は食材となる草を見つけた。
まず野生のルメクス――赤紫色の脈が走るその葉は、強烈な酸味を秘めている。さらに乾燥した砂地にへばりつくように生い茂る野生のタイム。清涼な香りを放ち、大気中の水分を吸って生き抜く強靭な薬草でもある。
「雑草じゃない。そんなものをどうするの」
訝しむジリをそのままに、シャハラは目につく香草をすべて摘み取って厨房へと持ち帰った。
さあ、戦の始まりだ。
シャハラは髪から重い髪飾りを抜いて紐で縛り、指輪などの装飾品もすべて外した。
井戸から水を汲み、錆びついた鉄鍋を砂で徹底的に磨き上げる。裏手に積み上げられた燃料を運び込むと、かまどに火を熾した。パチパチと薪が爆ぜる音が、死んだようだった厨房を蘇らせる。
最初の難敵は、すえた臭いを発する羊脂だった。
シャハラは固まった脂を鍋に放り込み、弱火でゆっくりと熱を加えた。温度が上がるにつれ、厨房内に獣の脂が腐ったような悪臭が立ち込め始める。
ジリを始めとして遠巻きに見ていた女たちは鼻をつまみ、顔をしかめた。
シャハラは動じなかった。脂が液体に変わった瞬間、中庭から摘んできたタイムの茎と、かまどから掻き出した「純粋な木の灰」をわずかに鍋に投入した。ジュワッと激しい音がし、緑の香草が油の中で爆ぜる。
灰はアルカリの性質を持ち、油の中の酸敗した腐臭成分(脂肪酸)を吸着して中和する。タイムの持つ強烈な揮発性が、羊脂特有の臭みを内側から潰してゆく。




