第1話 亡国の夜、王女の死
西の空を焦がすのは、落日の名残りではなかった。破壊と強奪にまみれて、燃やされる命の色だった。
オアシスの真珠、北の青薔薇と讃えられた美しき国ファルハの王都は、いまや大帝国アルザ・ヴァーンドの圧倒的な軍靴に蹂躙され、紅蓮の業火の只中にあった。
辺りには悲鳴と怒号、興奮する馬の嘶き、鋼と鋼が打ち合わされる凄惨な音が響く。三百年続いた平和な都の石畳は、おびただしい血によって染めあげられてゆく。
王城の片隅――普段ならば火が焚かれ、湯気と食材が放つ匂いに満ちている大厨房は、静寂と暗闇に沈んでいた。
シャハラは冷たい石の床に身を潜め、息を殺していた。彼女は市井で拾われた孤児で、この厨房で働く料理人の一人にすぎない。
突然、都の門が打ち破られ、帝国の軍勢が突入してくるまでは、いつも通り火の番をし、スープの煮える鍋をかき混ぜていた。カルダモンの清涼な香り、クミンの野性味、サフランの鮮やかな黄金色。香辛料の匂いと食材が煮える心地よい音が彼女を包んでいた。それなのに――。
「何が起きても出てくるな」
すぐ傍からしゃがれた声がした。囁いたのは、親代わりである老齢の料理長キアンだった。
幼い頃にキアンに拾われ、料理人としての腕を磨いてきたシャハラにとって、彼は「師匠」と慕うたった一人の家族だった。長年ファルハ王家の舌を満足させてきたキアンの手には、愛用の肉切り包丁が握られている。
すさまじい音と共に、厨房の頑丈な扉が蹴り破られた。
なだれ込んできたのは、黒鉄の鎧に身を包んだ帝国兵たちだった。室内を見渡し、ずかずかと歩き回る。誰かを探しているようである。
兵士が持つ松明の明かりに照らされて、大柄の男が悠然と入ってきた。男の左目は、顔に広がる生々しい傷跡と共に眼帯で隠されている。
帝国の大宰相が飼い慣らす狂犬にして冷酷な死神、隻眼の将軍ヴァイエルだった。残された土気色の右目が、暗がりで身を固くする二人の方に向いた。調理台の方へ近づいてくる。
キアンがすっくと立ち上がった。ヴァイエルの唇がいびつな弧を描く。
「見つけたぞ、ダーリシュ。こんな薄汚い鼠の巣に潜んでいたとはな」
(……ダーリシュ?)
シャハラが聞き慣れない名を訝しむ間もなく、
「ヴァイエル。大宰相の走狗め」
キアンは憎々しげに言い放ち、将軍の前に出た。握った肉切り包丁の刃がぎらりと反射する。
ヴァイエルが鼻をひくつかせた。
「奥にまだいる。……おい」
兵士たちが一斉に調理台を回り込む。
何本もの腕が、にゅうと伸びてきた。床にうずくまったシャハラを探り当てると、長い髪を掴んで一気に引きずり出した。
「師匠……!」
痛みと恐怖でシャハラは呻いた。
「違う。この子は私の弟子だ。何の関係もない!」
キアンが悲痛な声で叫び、シャハラに駆け寄ろうとした。それが彼の最期の言葉となった。
隻眼の将軍が素早く腰の曲刀を抜き放った。宙に閃光が走る。肉と骨が断たれる絶望的な音がした。シャハラの目に映ったのは宙を舞うキアンの首と、噴き上がる鮮血のアーチだった。
「あ……ああああっ……!」
シャハラの口から、糸を引くような悲鳴が漏れる。投げ出された肉切り包丁が乾いた音をたてた。
崩れ落ちるキアンの身体。流れ出した血が、床に積まれていた香辛料の袋を瞬く間に染める。シナモンの甘やかな香りと、鉄さびた血の匂い。
「師匠……。師匠! 嫌だ、離して! 師匠!」
兵士たちに取り押さえられたまま、シャハラは絶叫した。
ズンと鈍い痛みが走る。鉄の手甲をはめた手で頬を張られたのだ。唇が切れ、口内に温かなものが広がった。
「顔は殴るな」
ヴァイエルが命じた。
再び扉が開き、兵士たちが別の男を引きずってきた。
ひどく殴られたのか、男の顔は倍以上に腫れあがり、片目が潰れていた。彼はシャハラの同僚、同じ厨房の料理人だった。ヴァイエルが男の方を振り返った。
「この娘だな?」
男がシャハラを見た。恐怖と諦念が入り混じった目をしている。
「へ、へえ……」と力なく呟いた。
ヴァイエルは血濡れた刀を振り払い、シャハラの胸ぐらを掴むとぐいと引き上げた。
顔を近づけるとしげしげと眺め、
「確かに似ている。使えそうだ」
とひとりごちた。
「貴様が何者であろうと構わん。王女は生きて帝国にいさえすればいい」
シャハラは息を呑んだ。
王女とは、亡き国王と妃の一人娘であるアニサ王女のことである。ファルハが誇る至宝にして、この国で最も美しいとされる姫君だった。
シャハラは偶然にも、この高貴なる姫君とよく似た容姿をしていた。髪と瞳の色は微妙に違うものの、背格好も同じくらいである。かつては王女の影武者として所望されたこともあった。
好きで王女に似ているわけではない。どうすることもできない生まれつきの顔立ちが、彼女を過酷な運命の岐路に立たせようとしている。
背後で鈍い音がした。
シャハラがハッとして振り返ると、用済みとなった料理人の男の胸に剣が突き立てられていた。無様に倒れ、床に広がる新たな血。もはや声も出なかった。
シャハラは両脇を抱えられながら階段を上らされた。
乱暴に投げ出されたのは、王城の最上階にある豪奢な一室だった。斬り捨てられた侍女たちが、あちこちに倒れている。
長い絨毯の先、天蓋付きの寝台の上に若い娘が仰向けに横たわっていた。銀色に近い金髪に薄青の瞳、紫色になった唇からは血がひとすじ滴っている。アニサ王女だった。白く優美な手には、空になった小瓶が握られていた。
彼女はファルハの唯一の王位継承者だった。
国王夫妻は半年前に事故で急死し、喪が明け次第、女王に即位するはずだったが……その前に帝国は手を打った。
長年の属国ファルハを併呑すべく、都を急襲したのである。
王女の母である国王の妃は、アルザ・ヴァーンドの皇帝サーマド二世の妹。皇帝の姪にあたる王女さえ手中に収めれば、ファルハを帝国領に組み込むことができる。
しかし、王女は帝国の慰み者にされる未来を拒み、誇り高く死を選んだ。毒に侵されて青ざめた顔は、確かにシャハラとよく似ていた。シャハラは、自分の死体を眺めているような気分になった。
「これが意趣返しのつもりなら愚かな女だ」
隻眼の将軍は王女の亡骸を見下ろし、忌々しげに舌打ちした。もっとも重要だった人質が、ただの肉塊に成り果ててしまった。失態である。
とはいえ、王女服毒の報を受けてからの彼の行動は迅速であり、幸運にも恵まれていた。料理長を始末すると同時に、王女の身代わりを見つけ出したのだから。
ヴァイエルの視線がシャハラへと向けられる。
「王女の身ぐるみを剥げ。そこの鼠に、王女の衣を着せろ」
兵士たちが、王女の亡骸からきらびやかな絹の衣を剥ぎ取った。抵抗する気力もないシャハラへ強制的に着せていく。
襟に真珠が縫いつけられ、あでやかな刺繍が施された上衣。金糸と銀糸を交互に織り込んだ帯。毛皮を裏打ちした厚手の外套。黄金とラピスラズリの首飾り。
シャハラの肌に触れるそれらは冷たく、ふりかかった呪いのように重苦しかった。
王女の頭から抜き取られた簪や髪飾りが、シャハラの髪にざくざくと突き立てられる。ぐいと手を引っ張られ、腕輪や指輪をはめ込まれる。
つい数刻前まで、シャハラの手は食材を刻み、鍋で煮えるスープの火加減を調節していた。高貴な人々のために料理を作り、仕事が終わると残り物で賄いを作ってキアンと一緒に食べる。
食事の後は掃除をし、かまどの火に灰をかぶせて厨房の奥の寝床へ行く。夜明けと共に起き、キアンと中央市場に仕入れに出かける。決まりきった明日を微塵も疑っていなかった。
それが今は死者の衣を纏わされ、王女の身代わりにされようとしている。下着姿となって床に投げ出された王女の青白い手を見つめながら、シャハラは呆然とした。
こんなのは嘘だ。悪い夢だと思いたい。
ぎゅっと目をつぶる。開く。また閉じて開いても、目の前の現実は何も変わらなかった。
「今日から貴様がアニサ王女だ。声を出せば舌を抜く。逃げようとすれば手足を切り落とす。生きたければ、せいぜいしとやかにしていることだな」
将軍の非情な宣告が、他人事のように聞こえた。
飾り立てられ放心してしまったシャハラを、兵士たちが無理矢理立たせた。
***
ファルハの王都が帝国軍に占領された数日後。
凱旋する軍と共に、一台の豪奢な馬車が帝都を目指して砂漠を進んでいた。黄金の装飾が施された馬車の窓には太い鉄格子が嵌め込まれ、扉には二重の鍵が取り付けられている。高貴な虜囚を運ぶための動く檻だった。
鉄格子越しに見える風景は、容赦なく照りつける太陽と、見渡す限りの赤茶けた砂漠だけである。乾いた風が絶え間なく砂を巻き上げ、窓枠をピシピシと打ち据える。
揺れる馬車の中に、亡国ファルハの王女となったシャハラの姿があった。絹のクッションに沈み込む身体は小さく丸まっており、顔には慣れない旅の疲労が滲んでいた。
手首には、逃亡を防ぐための銀の鎖が巻かれている。食事も水も与えられてはいたが、あまり喉を通らなかった。食べなければと思うほど、胃が縮むような感じがする。
彼女は時折、自身の手をじっと見つめた。
スパイスの色素が染み込み、小さな火傷の痕が無数に残る手。白く柔らかな王族のそれとは程遠い労働者の手である。これだけでも自分の正体は一目瞭然なのに、帝国は王女の振りをしろという。
幾日にも及ぶ旅の果て。
地平線の彼方、ゆらめく陽炎の先に圧倒的な威容が出現した。
自らを「世界の中心」「大陸の守護者」と喧伝する大帝国アルザ・ヴァーンド。東西南北のあらゆる富、あらゆる命、あらゆる欲望を内包する巨大な都だった。
天を突くような高い尖塔が陽光を反射して輝き、大理石で築かれた堅牢な城壁は、いかなる外敵の侵入も許さぬ絶対的な威圧感を放っている。
馬車が帝都に入ると、外の砂漠の静寂が嘘のような喧騒と熱気が押し寄せてきた。強い香の匂い、獣肉の臭い、スパイスの芳香、何十万という人々の体臭、あふれる熱量が窓越しのシャハラにも伝わる。
やがて馬車は、王宮の正門であり検問所でもある「万国の門」を越えて外廷に入った。
迷宮のように入り組んだ宮廷の深部へ進み、幾つもの中門と検閲を越えた。三方を高い石壁に囲まれた行き止まり、黒檀の扉の前まで来ると停車した。一度足を踏み入れれば二度と出られない欲望と陰謀のるつぼ――後宮の入り口であった。
「降りろ」兵士の無機質な声と共に、馬車の扉が開かれる。シャハラは痺れた足を労わるようにゆっくりと立ち上がり、重いドレスの裾を引きずって外に出た。銀の鎖が外される。
「開門」という掛け声と共に、黒檀の扉が内側から開く。シャハラは扉の先の暗がりを見据えた。
「進め」
兵士が槍の石突でどんと背中を押した。
シャハラは言われるがままに歩き出した。
扉を抜けるとすぐに閉ざされ、錠が下りる無情な音がした。
料理人シャハラの、偽りの王女としての人生が幕を開けた瞬間だった。




