第59話 ファルハ総督と兵站総監
帝都の上空には、透き通るような蒼穹が広がっていた。
地図になかった十三の秘密兵站基地はバルト将軍の軍勢によって制圧され、大宰相の私兵たちは武装解除の上で投獄、もしくは放逐された。赦免される代わりに、辺境の守備隊や労役部隊へ送られる者も多かった。
国庫から横領された備蓄はただちにアルマン軍に届けられ、黒の回廊を通って来た本隊は、やっとまともな兵糧を得ることができた。
大宰相によって抑圧されていた外廷および内廷も解放された。
助け出されたヤーヤは、第八皇妃マリハのもとに戻された。マリハは泣いて喜び、白蓮の宮にまで出向いて第一皇妃ラミアの前に跪き、厚く礼を述べたのだった。
宮廷を覆っていた疑心暗鬼の霧は晴れ、官僚や女官たちも安堵の息をついた。
数日後、都の正門から歓喜のどよめきが起こった。
地響きのような軍馬の蹄の音と共に、アルマン軍の本隊が堂々たる入城を果たしたのである。
アルマン自身はすでに宮城に入っていたが、門の手前まで出向いて本隊を出迎えた。
黄金の兜と甲冑をまとったアルマンを先頭に、戦塵にまみれ、栄光に彩られた精鋭たちが大通りを行進する姿は、帝都の民衆に帝国の威光と、誰が次の皇帝になるのかを強く印象付けた。
ほどなくして、宮中において立太子の儀式が執り行われた。
ムスハ遠征は皇帝の意志ではなかった。
病身の皇帝サーマド二世を救い出し、帝国の危機を防いだ功績で、第一皇子アルマンが正式に皇太子となったのである。
勅命を下したサーマド二世は阿片を断ち、正気を取り戻していた。
だが、病に蝕まれた身体はいかんともしがたく、立太子の儀式の後は玉座に座ることも叶わず、病床に臥す日々が続いていた。侍医たちの見立てでも、先が長くないことは確かだった。
皇太子となったアルマンはただちに「皇帝代理」として国政の実権を握り、果断に采配を振るい始めた。
彼は腐敗しきった宮廷人事を一新し、大宰相に与していた貴族たちを容赦なく罷免・降格させる一方で、有能であれば身分を問わず取り立てた。その剛腕ぶりは、まさに次期皇帝にふさわしいものであった。
しかし、アルマンも含めて宮廷の誰もが知っていた。
今回の大逆転劇において、一番の功労者が誰であるのかを。
アルマン軍が帝都に到達するまでの間、大宰相の不正の証拠を集め、バルト将軍を味方に引き入れ、ついには難敵のヴァイエル将軍をも打ち倒した胃弱の皇子。
誰もが軽んじ、気にも留めなかった第十二皇子カムランの知略こそが、帝国の命運を繋ぎ止めたのだと。
数日が過ぎ、政務が軌道に乗り始めた頃。
アルマンは内廷の執務室にカムランを呼び出した。
「よく来たな、カムラン」
アルマンは机越しに、相好を崩した。
大勢の官僚や武官を前にした時の厳格な皇太子ではなく、どこか目尻の下がった兄の顔であった。
「兄上。正式な立太子、そして皇帝代理への就任、誠におめでとうございます」
カムランは臣下の礼を取り、次期皇帝に向かって平伏した。
その姿は、彼が装っていた青白く弱々しい印象とは異なり、揺るぎない自信とほのかな凄みを漂わせていた。
「堅苦しい挨拶は抜きにしよう。お前には感謝してもしきれん。わしを北から誘導しつつ、メリクの首根っこを掴んでしまうとはな。バルトから報告を聞いた時は、さすがに耳を疑ったぞ」
「私はただ、己の身と大切な者たちを守るために動いただけです」
「謙遜するな。思えば、今回の行軍ほど心細いものはなかった。兵站の続かない軍は軍として機能せん。お前の策がなければどうなっていたことか」
アルマンは深々と息をついた。
ムスハ遠征に出たものの、都から来た輜重部隊の兵糧は、カムランの報告通り食べられたものではなかった。
カムランは不正の証拠品の押収がてら、できるかぎり兵糧を正規品にすり替えたが、それも荷馬車数台分にしかならず、焼け石に水だった。
結局アルマンは軍を維持できないと判断し、ムスハ渓谷の手前に少数の兵を残すと、半数以上をヤジデに撤退させた。残りのうち五千を黄鉄門関に向かわせて囮にする一方、一万五千の兵を率いてギダ高地へ南下した。
道中で兵糧は尽き、仕方なく通った町や村の備蓄や家畜類、運悪く行き会った隊商から半ば強引に物資を買い上げて食いつなぐ羽目になった。
ギダ高地に入ってからは、黒の回廊を死守するミフラーン兵の残党に悩まされた。
数こそ劣るものの地の利はあちらにあり、ここでもゲリラ戦に苦しめられることになった。
結局、ザイードの死が伝わってミフラーン兵が降伏するまでギダ高地に足止めされ、その間に糧食と飼料の問題は限界に達した。
「馬を潰して食うかという状況にまで追い詰められ、困窮を極めたところで、ようやく黒の回廊へ入ることができた。わしは補給を待つことなく、精鋭を率いて回廊を駆け抜けた。後続の本隊もバルトの補給部隊と合流を果たし、息を吹き返したのだ」
もしカムランの策がなければ、ヤジデに撤退して態勢を立て直すほかなく、その間に大宰相に守りを固められ、逆賊の汚名を着せられていただろう。
まさにカムランあってこその勝利だった。
「さて、今日お前を呼んだのは他でもない。お前の功績に対する正式な褒美を与えねばならんと思ってな」
アルマンは羊皮紙の巻物を机の上に広げた。
「お前には、『兵站総監』の地位を与えようと思う」
「兵站……総監ですか?」
「そうだ。今回の騒動で痛感した。軍の生命線である物資と補給路を、一部の文官や宰相の裁量、兵部卿に委ねておくのは危険すぎる。今後は軍の内部に、後方部隊の物資の流れや帳簿を厳しく監視し、不正を摘発する独立した監査機関を設ける。お前には後方の最高責任者、全軍の財布の紐を握る監察官として働いてもらいたい」
それは十八歳にならんとする皇子としては、破格の待遇だった。
大宰相の不正を暴き、隠し備蓄基地のカラクリを見破ったカムランの能力を高く評価した上で、新設された要職である。
カムランはそこで初めて年相応に顔を綻ばせた。
「ありがたき幸せ。大役、謹んでお受けいたします。……ですが兄上。私からもお願いの儀が」
「なんだ、言ってみろ。領地か。それとも金か?」
「いいえ。私はこれまで、都とその周辺のことしか知らずに生きてきました。ですが、今回の件で考えたのです。帝国の真の姿を知るためには、地方を見て回る必要があると。どうか、私を『ファルハ総督』に任じてはいただけないでしょうか」
「ファルハか」
それは大宰相が滅ぼした属国であり、現地はどうなっているのかわからない不明瞭な地域でもあった。
アルマンはどこか心配そうに言った。
「ファルハは帝国に併合されて日が浅く、メリクの残存勢力が幅を利かせているかもしれない危険な土地だ。統治には苦労するだろう」
「そうかもしれませんね」
「お前はまだ若い。逸る気持ちはわかるが、ファルハではなく、まずは南部総督あたりから経験を積んだ方がいいのではないか」
「ですが、兄上。ファルハは大陸交通の要衝。東西南北のありとあらゆる物資と人間、情報が入ってきます。ファルハを押さえておけば、必ずや帝国の利になります。私も情報将校として腕を磨けます」
「……わかった。そこまで言うなら反対はすまい。総督の地位を与えよう。ファルハを拠点に全軍の兵站網を監視することも可能だろう」
「ありがとうございます」
そこでカムランは、アルマンの顔色を窺いながら言った。
「もう一つお願いが。アニサ王女の身柄を私にお預けいただきたく。彼女をファルハに連れて行きたいのです」
王女を伴えば、ファルハの民の反発を和らげることができる。統治の正当性を得るための大きな助けとなると、カムランは熱弁を振ルった。
聞き終えると、アルマンは豪快に笑った。
「はははっ! そういうことか。よかろう。かの地の民も、王女がお前の保護下にあると知れば無用な反乱は起こすまい」
アルマンは顎をさすりながら、少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「だが、王女一人だけでいいのか? お前もそろそろ身を固めていい年頃だ。一地方の総督になるのだから、腰を据えるためにも身の回りの世話をする女が必要だろう。後宮の美女を何人でも連れていくがいい」
「お心遣いは感謝いたしますが……結構です」
カムランがやんわりと断ると、アルマンはわざとらしく大きなため息をついた。
「お前は若い割に淡白だな。色事のほうも少しは興味を持たんか。そうだ、アニサ王女を連れていくなら、ヌルルも持っていけ」
「……は?」
カムランは耳を疑い、間の抜けた声を漏らした。
「ヌ、ヌルルを……持っていく? 荷物のように仰いますが、あの子をファルハへ連れて行けということですか?」
「ああ。ヌルルはいずれお前に嫁がせるつもりだった。といってもあれはまだ子供だ。まずは婚約だけにして、ゆっくりと夫婦の絆を育めばいい。うむ、よいではないか」
「えええっ……!」
カムランは仰天し、思わず三歩ほど後ずさった。
「お、お待ちください兄上。ヌルルは姪ですよ。いくらなんでも血が近すぎます」
カムランが青ざめて抗議すると、アルマンはあっけらかんとした顔で手を振った。
「気にするな。わしとお前は母親が違うし、ヌルルの母親も南部の商家出身で帝室と血縁はない。血筋的にはそんなに近くない」
「いやいやいや、そういう問題ではありません。あの子は私にとって妹みたいなもので、それ以上の感情はありません。謹んでお断りさせていただきたく」
カムランが必死に首を振るのを見て、アルマンは少しばかり困ったような顔をした。
強引に縁談を進めようとするのには、彼なりの理由があった。
後ろ盾を持たない立場の弱いカムランを慮ってのことで、いずれ彼に娶わせるべくヌルルを母に預けたのである。
次期皇帝の娘を正室に迎えれば、カムランは皇帝の義理の息子となり、いかなる豪族も官僚も軽んじることはできない。
「わしはお前の将来を案じているのだぞ、カムラン」
アルマンは真面目な顔で弟を見つめた。
「お前は賢いが、海千山千の宮廷を渡っていくには確固たる後ろ盾が必要だ。わしという絶対の盾を持て。ヌルルも、お前のことを慕っているし問題はない」
「私の気持ちに問題があります。兄上のご配慮はありがたいですが、政略結婚でヌルルを縛り付けるような真似はしたくありません」
「むぅ……」
アルマンは腕を組み、唸り声を上げた。
「お前の家庭にまで口を挟む気はなかったが……。よし、ではこうしよう。お前とアニサ王女のことは知っている。アニサ王女も正夫人にすればいい。ヌルルとアニサ王女、両方を正室にして仲良くやれ。それなら文句はないだろう」
「いえ、そういう問題でもなく……」
直情すぎる妥協案に、カムランは頭を抱えたくなった。話の論点が完全にずれている。
いくら説得しても頑なな弟に、ついにアルマンは業を煮やした。
彼は立ち上がると、足もとに置いてあった二振りの木剣を掴み取り、そのうちの一振りをカムランに向かって放り投げた。
「えっ?」
反射的に木剣を受け取ってしまったカムランに対し、アルマンは猛獣のような笑みを浮かべて構えを取った。
「では、わしと手合わせだ!」
「は……はい?」
「今ここで立ち合え。お前がわしから一本でもとれたら、結婚の件は諦める。だが、お前が全敗したらヌルルを連れて行け」
ドンッと執務室の床を踏み鳴らし、アルマンが恐るべき闘気を放つ。
カムランの顔から血の気が引いてゆく。
「嫌です。無理です。勘弁してください!」
先日の太陽の間で見せた、氷のように冷徹で優雅な剣士の面影はどこへいったのか。
カムランは木剣を放り投げると、辟易した顔で執務室の調度品の裏へ逃げ込んだ。
「逃げるなカムラン。ヴァイエルを倒したその腕前を見せてみろ」
「あれは偶然です。奇跡的に勝てたんです。兄上から一本取れるわけがないでしょう。だいたい執務室で暴れないでください!」
「ええい、すばしっこい奴め。往生際が悪いぞ。戦わないなら娘と結婚しろ。わしの息子になれ!」
「嫌ですよ!」
次期皇帝と新任の総督による、子供の喧嘩のようなドタバタ劇が執務室で繰り広げられた。
結局、逃げ回るカムランを捕まえきれず、アルマンが笑いながら根負けする形でこの珍騒動は幕を閉じた。
カムランは「ファルハ総督」および「兵站総監」という役職はありがたく拝命したものの、ヌルルとの結婚は固辞したのだった。




