最終話 新たなる旅立ち
一ヶ月後の出立の朝。
晴れ渡る空の下、万国の門の前で、アルマンは複雑な表情で弟を見つめていた。
「本音を言えば、お前にはわしの傍にいて欲しかった。お前の明晰な頭脳があれば、帝国は十年も待たずに黄金期を迎えるだろうに」
「兄上、いずれはお傍に。ですが今は、帝国の版図の端から端まで自らの足で歩いてみたいのです」
カムランは、爽やかな風に黒絹の外套を翻しながら、確かな信念を宿した笑みを浮かべた。
「大宰相が残した腐敗は、都だけにとどまりません。辺境にも目に見えぬ病巣として深く根を張っています。それらをすべて炙り出し、焼き払い、再編する。これは帝国を真の意味で立て直すための私の戦いなのです」
「何年かかると思っている。まったく途方もないことを考える奴だ」
アルマンは呆れつつも、どこか誇らしげに鼻を鳴らした。
「よかろう。お前に与えた兵と物資は好きに使うがいい。何かあればすぐにわしを頼れ」
「深く感謝いたします、兄上」
カムランは一礼すると、ファルハ総督として、そして全軍の兵站総監として馬に跨った。
新総督の門出にふさわしく、門の外にはアルマンから授けられた五千の兵が隊列を組み、後方には無数の荷馬車が長蛇の列をなしている。
カムランが先頭に立ち、馬を進める。
こうして大部隊は、賑やかな帝都の正門を抜け、街道へ踏み出していった。
都の喧騒が遠ざかり、街道沿いにのどかな田園風景が広がり始めた頃。後ろの方から、軽快な馬蹄の音が近づいてきた。振り返ると、一頭の馬が隊列を追い抜くようにして走ってきた。
乗っているのはシャハラだった。
彼女は対外的にはいまだファルハのアニサ王女であり、隊列の中ほどの豪華な馬車に乗っていた。
しかし都を出ると馬車を降り、馬を借りてカムランの元へ駆け寄ってきた。
重々しい王族のドレスではなく、動きやすいゆったりとした穿袴を穿き、機能的な旅装に身を包んでいる。
蜜色の髪を風になびかせ、馬を乗りこなす姿は実に凛々しく、カムランは彼女の意外な一面を見たような気がして何度も瞬きをした。
外に出たシャハラは、鳥籠から放たれた鳥のように生き生きとしている。帝国の保護下にあるが、もはや虜囚の身ではない。久々の自由の風を満喫するように、何度も深呼吸をした。
「お前も馬に乗れたんだな」
カムランが感心したように言うと、シャハラは当然といった顔で答えた。
「毎日の仕入れは馬車を使っていたし、荷物が少ない時は馬で運んでいたから」
「料理人は馬も操るのか」
カムランは思わず苦笑した。
「ファルハに帰れるのが嬉しいか」
カムランが尋ねると、シャハラは目を細めて笑った。
「うん、嬉しい。帝国は暑すぎるし」
「ファルハは暑くないのか」
「南部は暑いけど、北部はそうでもない。冬は雪が降る。暖炉の前で温かいサハレブを飲むのが冬の醍醐味」
「そうか……」
カムランは遥か北方の地に思いを馳せた。
「雪は、帝国では文献にしか出てこないものだ。実際に見るのが楽しみだな」
まだ見ぬファルハの厳しくも美しい自然を想像すると、胸が高鳴る。
「……それにしても」
シャハラが手綱を握り直し、カムランの顔を覗き込んだ。
「殿下がファルハの総督になるとは思わなかった」
「そうか? 私にとっては一番理にかなった選択だったのだが」
カムランは馬の歩調を合わせながら語り始めた。
「帝都防衛大隊の長も魅力的ではあった。だが、あの猛将バルトと席を争うのはきつすぎる。軍部との軋轢は避けたいしな。それに……」
カムランは少し肩をすくめておどけてみせた。
「私は、兄のような豪傑でも勇者でもない。前線で剣を振るうより、策謀を巡らせ、人と物資を動かす後方支援の方が性に合っている」
「帝国の軍師だものね」
シャハラがくすりと笑うと、カムランは頷いた。
「裏のな。裏の軍師でいたい。表に出てしまうと命がいくらあっても足りん。それに……前線に出たら、お前の料理が食べられなくなるしな」
「食いしん坊ね」
「お前の料理のせいだ。いや、おかげだな」
カムランはまっすぐシャハラを見つめた。
表情は、先ほどまでの冗談めかした態度から一転して真剣なものになった。
「シャハラ。お前は、これからも私の料理人でいてほしい。そして……良き友でいてほしい」
率直な言葉に、シャハラは不思議そうに首を傾げた。
「一緒にいたいってこと?」
「ああ」
カムランは少し照れくさそうな顔をした。
「いっそのこと結婚するか?」
総督の地位を得たのだ。アルマンの言う通り、身を固めるのも悪くない。
シャハラは現在もアニサ王女であり、カムランの保護下にある。
彼女を総督夫人に迎えれば、ファルハの民からの反発を抑え、統治の正当性を得られる。シャハラと一緒にいるための、政略的にも個人的にも完璧な提案のはずだった。
唐突すぎる提案に、シャハラは一瞬だけ目を見開いた。
それから冷静な声で問い返してきた。
「拒否権は?」
身も蓋もない切り返しに、カムランは虚を突かれたような顔をし、次いで観念したように短く息を吐いた。
不承不承、彼は答えた。
「……ある」
権力を振りかざせば、強引に同意させることもできるだろうが、そうはしたくない。
「どうしようかな」
シャハラは迷うような素振りを見せた。
「私はファルハ総督で兵站総監だぞ。夫として不足はないだろう」
カムランは憮然として言った。
「でも殿下はヌルル姫と結婚するんでしょ?」
「なっ!」
予期せぬ名前の登場に、カムランは平静を失った。激しく動揺し、青ざめた顔で叫んだ。
「し、しない!」
「みんなが噂してた。殿下はヌルル姫と婚約するようだって。お兄さんが結婚に大乗り気だって」
「してないし、する気もない! あれは兄が勝手に盛り上がっていただけで、私は断固として拒否した。あの子は姪だぞ。馬鹿を言うな」
必死になって弁明するカムランの姿に、シャハラは口元を綻ばせた。
「じゃあ、保留で」
「ほ、保留?」
カムランは拍子抜けした。少しして、恐る恐る尋ねた。
「拒否しないのか?」
「さあ、どうだろう」
「どうだろうって……」
「料理の味付けと同じ」
「料理……?」
「少し時間を置いて熟成させたほうが、物事は美味しく仕上がることもあるし」
シャハラは澄ました顔で前方を見つめた。
断られなかったことに安堵しつつも、カムランの胸には保留という状態に対する一抹の寂しさが残った。
「それに、あなたの胃袋は私のごはんがないとだめになってしまうから」
痛いところを突かれてカムランは唸った。
確かに、常に思考を求められるカムランの脳と胃袋は、シャハラが作りあげる特別な食卓なしでは十全に機能しない。
「そうだ。私はお前の料理がなくては健康を保てない」
カムランはふっと息をついた。
「お前の鼻と舌がないと、地方の不正も見抜けんしな」
これは指揮官としての偽らざる本音であった。
帳簿の矛盾や数字の不自然さは、カムランの頭脳が暴き出す。
だが市場の実態や、どのような質の食料や兵糧が流れているのか、民衆や兵士が食べているものを見抜くためには、あらゆる不純物を嗅ぎ分け、産地と製造工程すら言い当てるシャハラの鼻と舌、そして錬金術のごとき調理技術が必要だった。
「私にはお前が必要だ。百味師に勝るとも劣らないお前の才能が」
「そう」
シャハラはカムランの熱弁にも淡々と応じた。どうにも掴みどころがない。
カムランは密かに嘆いた。……結婚は無理かもしれない、と。
ふと、カムランは頭上から聞こえた羽音に気づき、空を見上げた。
「あ……」
雲ひとつない真っ青な空を、二羽の鷹が飛んでいた。
純白の腹を見せるスハイルと、漆黒のパルヴィーンだった。
パルヴィーンは姉と一緒なのが嬉しいのか、スハイルの周囲をくるくると回ってはしゃいでいる。
今後、この姉妹鷹は帝都とファルハを往復することになる。
カムランは空を指差して言った。
「見ろ。師匠が来たぞ」
シャハラも空を見上げた。
鷹たちの翼が、太陽の光を浴びてきらきらと輝く。
長大な隊列はゆるやかに蛇行しながら、帝都のシルエットをはるか後方へ置き去りにし、帝国の西北部、その先のファルハへ進んでいく。
味覚と包丁で真実を切り開く料理人シャハラと、論理と策謀で敵を追い詰める兵站皇子カムラン。
今、二人の新たなる旅が始まった。
【了】




