第58話 死闘
太陽の間を支配していた力関係は、根底から覆された。
天井から降り注ぐ淡い蝋燭の光は、もはや栄華の象徴ではなく、崩れゆく権力の残骸を照らし出す審判の光となっていた。
床に這いつくばる大宰相の姿は、先刻まで世界を睥睨していた権力者のそれではない。
虚飾の衣を剥ぎ取られ、老醜を晒す敗残者に過ぎなかった。
「……おのれ。おのれぇぇぇッ!」
大宰相は獣のように唸りながら立ち上がった。
彼はついに理性のタガが外れた。
両目は充血し、口から泡を飛ばしながら叫んだ。
「やれ。皆殺しにしろ。私に逆らう者は、一人残らず肉塊に変えてしまえ。何よりカムランだ。あの小僧は最優先で殺せ!」
狂乱の命に応じ、バルト軍と交戦状態にある兵たちが一斉にカムランの方を向いた。
彼らは大宰相の影、長年暗躍してきた刺客でもあり、主の敗北は己の死を意味する。もはや後戻りなどできないと悟った彼らの目には、死兵の狂気が宿っていた。
先頭に立つのはヴァイエルだ。
歴戦の猛将である彼の手には、愛用の曲刀が握られていた。
並の兵士ならば両手で扱う業物を彼は片手で自在に操る。唯一の眼球を憎きカムランに向け、猛牛のごとき踏み込みで突進を開始した。
「陣形を崩すな。早く客たちを出せ!」
バルトの怒号が飛ぶが、ヴァイエルの膂力と太刀筋はすさまじいものがあった。
立ちはだかる防衛大隊の兵士が身を護るために掲げた鋼の盾を、力任せの一撃で弾き飛ばす。
体勢を崩した兵士の首筋へ、流れるような返し刃が深々と食い込んだ。首が飛び、鮮血が雨となって降り注ぐ。
気合いと共に振り下ろされた曲刀。
大理石の床に刃が激突するが、カムランの姿はなかった。
彼は素早い身のこなしで後方へ跳躍した。その手には、いつの間にか抜かれた白銀の長剣が握られている。
「逃がすか。叩き斬ってやる!」
咆哮と共に嵐が吹き荒れる。
曲刀が空を裂き、猛烈な連撃となって迫る。
カムランは正面から受けることを避け、広間を駆けながら防戦に徹した。
「くっ……!」
剣が曲刀を受け流すたび、腕が痺れるほどの衝撃が走る。
カムランを追うヴァイエルの曲刀は、周囲に無差別な破壊をもたらした。
「はひぃぃッ! た、助け……」
逃げ遅れた大宰相派の貴族が、足をもつれさせてヴァイエルの進路に立ち塞がってしまった。
「邪魔だ」
かつての味方であろうと容赦はなかった。
振り下ろされた刃が、絹の衣服ごと貴族の腹部を深々と切り裂く。断末魔をあげる暇もなく、貴族は大量の血を噴きながら料理の並ぶ卓へ倒れ込んだ。
床に倒れかけた燭台を、カムランが間一髪で弾き飛ばす。火が床に燃え広がったら、助かる命も助からなくなる。
あちこちから負傷者の呻き声が聞こえる。晩餐の場は、血の池と死体が折り重なる阿鼻叫喚の地獄絵図と化していった。
狂乱の渦中にあっても、カムランは冷静だった。
ひっくり返った小卓や椅子を蹴り飛ばして盾とする。
障害物を作りながら逃げて、ヴァイエルの体力を削る。
勝機を虎視眈々と窺う。一瞬だ。一瞬の隙を突いて仕留めるしかない。
「逃げてばかりか、腰抜けの皇子殿下」
鋭い一撃が大理石の柱を打ち砕く。刃が深く食い込んだことでヴァイエルの動きが止まった。
カムランは肩で大きく息をしながら足を止め、白銀の剣を正面に構え直した。
戦場の喧騒の中で、彼は不敵に笑った。
「私は胃弱だが、剣術の心得がないわけではない。私に剣を教えてくれたのは第一皇子でね」
カムランの脳裏にかつての日々、屋敷の中庭でアルマンに幾度となく叩きのめされた思い出が蘇る。
兄の稲妻のような剣閃、圧倒的な強さに比べれば、目の前の荒れ狂う獣などただの的でしかないと言い聞かせる。
「アルマンの神速の剣に比べれば……貴様の刃など止まって見える」
「ほざくな、小童!」
激高したヴァイエルが柱から曲刀を引き抜き、大上段から脳天を割らんばかりの勢いで振り下ろす。
空気を裂く鋭い風切り音。
カムランは最小限の動きで躱す。刃が床に激突して火花が散り、ヴァイエルの体勢が崩れた。
その隙を突き、将軍の懐へ踏み込んで鋭い蹴りを入れる。
ヴァイエルは突然繰り出された体術に面食らいながらも、後ろに飛び退いて構えを直す。
「ヴァイエル。貴様はファルハで、私の相方の恩師を殺した」
「ダーリシュのことか。そういえばそんな鼠もいたな。小賢しく逃げ足ばかり速い鼠だった」
今度はカムランが左側から剣を突き出す。
ヴァイエルはすんでのところで刺突を避けた。
余裕に見えた将軍の顔に動揺が走る。カムランが狙ったのはヴァイエルの左、すなわち黒い眼帯に覆われた完全なる死角だった。
ヴァイエルは隻眼で数多の戦場を渡ってきたゆえに、右目の視覚に頼り切った距離感と足捌きが癖になっている。
カムランは逃げ回りながら、ヴァイエルが左側からの攻撃に対してわずかに反応が遅れることを見抜いた。ここを攻めるしかない。
「あいつを泣かせ、苦しめた罪……万死を以て償え!」
カムランは、ヴァイエルの左側面へ滑り込むように身を沈めた。
「しまっ……!」
ヴァイエルは、曲刀を引き戻そうと腕に力を込めたが遅かった。
カムランは、この場にはいないファルハで散った百味師に向かって言った。
「ああ、ダーリシュ。お前の言う通りだ」
彼が遺したレシピ……暗号文をそらんじる。
「塩の海、三つの山、十三の釜……最後に隻眼の獣の脂で満たせば極上の晩餐の完成だ!」
カムランの剣が、神速の軌跡を描いて横へ薙ぎ払われた。
それは力任せの斬撃ではない。帝国の伝統的な剣術であり、修練の末に体得した腕切りの技だった。武器を持つ利き腕を狙い、相手を無力化する。
「ぐ……ッ!」
刃がヴァイエルの右腕を覆う甲冑の、守りが薄い部位を正確に捉え、分厚い筋と骨を断ち斬った。
曲刀を握ったまま、右腕がだらりと垂れさがる。バランスを崩した巨躯がたたらを踏む。
ヴァイエルの唯一の目が大きく見開かれた。
カムランは、流れるような動作で剣を反転させる。
地を滑るような強烈な踏み込みで一気に懐へ飛び込むと、将軍の胸当ての継ぎ目、最も装甲の薄い心臓部へ渾身の突きを放った。
ズブッという生々しい音と共に、剣が肋骨の隙間を縫い背中まで貫通する。
「が、はあっ……」
ヴァイエルは肺腑を貫かれた衝撃で、口から大量の血を吐き出した。そして、自らを貫き、今も剣を押し込んでくる皇子をじっと見つめた。
無敗を誇った将軍にしては呆気ない致命傷。
だが、ヴァイエルの顔に浮かんだのは、怒りでも死の恐怖でもなかった。
血まみれの口角をわずかに上げ、どこか満足げに笑った。
「見事だ……。やはり……あの時、首を刎ねておくべき、だった……な」
ヒューッと喉の奥で音をたてると、ヴァイエルは絶命した。
カムランが剣を引き抜くと、大宰相が抱えていた最強の武将は倒木のように崩れ落ちた。
「勝負あったな、大宰相」
剣の血を払いながら、カムランは言い放った。
周囲を見渡すと、太陽の間の制圧は完了間近だった。皇帝とヤーヤは救出され、部屋の隅で介抱されている。
ヴァイエルが討ち取られたことで戦意を喪失した私兵たちは、次々と武器を捨てて投降している。
大宰相自身も、背後から忍び寄ったビジャンたちに首筋へ刃を突きつけられ、床に伏せさせられていた。
「離せ! 私は大宰相だぞ。この帝国を支えてきた真の忠臣……」
バタバタと暴れ、首から血を流しながらも喚き散らす老人を、カムランは心の底から蔑んだ。
「真の忠臣だと? 貴様は詐欺と横領にまみれ、国に寄生していた醜い蛭に過ぎん。無一物となったメリクよ。これから貴様が犯した悪事のすべてを吐いてもらうぞ」
大宰相、いやメリクは縛り上げられ、広間から引き摺り出されていく。
彼は地位も名誉も、実効支配していたファルハも、築き上げた十三の備蓄基地も、莫大な不正蓄財も、自らを守る私兵軍団をも失い、丸裸となった。
皇宮で繰り広げられた晩餐会は、死闘と流血の果てに終わりを迎えた。




