第57話 皇帝と将軍の帰還
「殺せ! その狂った皇子を今すぐ斬り刻め!」
大宰相の命令に応じ、ヴァイエルが剣を抜き放った。
ビジャンをはじめとする護衛たちも武器を構え、広間が一触即発となったその時、おごそかな声が響いた。
「騒々しいぞ、メリク」
その声は決して大きくはなかった。
枯れ木のような掠れ声だったが、その場の空気を一瞬にして凍りつかせるような絶対的な威厳を持っていた。
全員の視線が、最上座に釘付けになる。
阿片の煙で自我を失ったはずの皇帝サーマド二世。
病魔に蝕まれた身体は痩せこけ、激しい咳に胸を上下させていたが、その全身から放たれる気迫は凄まじかった。
衰弱した身体に鞭打ちながらも背筋を伸ばした彼の双眸には、かつて数多の国や地域を蹂躙し大陸を震撼させた覇王の光が宿っていた。
「へ……陛下? 馬鹿な。なぜ……」
大宰相は腰を抜かし、玉座から転げ落ちてへたり込んだ。
無理もない。病気の治療と称して阿片漬けにし、自我を奪っていたのだから。皇帝が正気を取り戻すことなど、あり得ないはずだった。
大宰相は知らなかった。
シャハラが皇帝に出す料理に、密かに仕掛けを施していたことを。
固形物を口にできない皇帝のため、給仕係が匙で少しずつ飲ませていたのは、滋養強壮を名目とした特製の薬膳スープだった。
誤嚥を防ぐためにとろみをつけたスープには、シャハラが選んだ生薬と香辛料が仕込まれていた。
淀んだ気を打ち砕く「黒カルダモン」と、脳への血流を一気に促す「生姜」の鋭い辛味。それらが阿片による鈍痛と冷えを断ち切る。
そこへ精神を高揚させる「サフラン」と身体を温める「シナモン」、仕上げの「ペパーミント」の清涼感が脳を覚醒へと導いた。
衰弱した皇帝から一時的に正気を引き出す――シャハラが作った決死の気付け薬であった。
「余の目と耳を塞ぎ、余の名を騙って害悪を働き、あまつさえ余の皇子を手に掛けようとするか。メリク、貴様はいつから余の主になった」
皇帝の静かながらも怒りに満ちた詰問。
大宰相の権力の源泉は、ひとえに「皇帝の代行者」という立場にあった。その皇帝本人が正気に戻り、突き放した瞬間、大宰相の正当性は砂の城のように崩壊した。
私兵たちですら皇帝の怒気を前にして剣先を震わせ、後ずさりしてしまう。
「ち、違います陛下。これはカムラン殿下の陰謀で……!」
大宰相が苦しい弁明を試みる。
彼の護衛兵たちが咄嗟に動き、へたり込んだ大宰相を覆って肉の壁を作り、皇帝の威光から引き離すように後方へ下がらせた。
まさにその瞬間だった。すさまじい破砕音と共に、太陽の間の巨大な扉が外側から蹴り破られた。
「閣下! 大変です。正門が……破られました」
血まみれになった伝令が、転がるようにして飛び込んできた。
「なんだと。ミフラーン軍が戻ってきたのか」
「違います。防衛大隊です。バ、バルト将軍が帰ってきました!」
伝令の悲鳴をかき消すように、鋼の鎧を打ち鳴らす重厚な足音が押し寄せる。
軍部の最精鋭であり、国防の要たる帝都防衛大隊。鎧兜で身を固めた重装歩兵たちがなだれ込んでくる。
部下たちを押し分けるように入ってきたのは、黒真鍮の甲冑に身を包んだ歴戦の猛将バルトだった。熊のごとき巨躯と頬の刻傷、獰猛な光を湛えた眼は剽悍そのもの。
その手には、血に染まった両刃斧が握られていた。
「逆賊メリク。貴様の野望は潰えた。武器を捨てて投降しろ!」
バルトの雷鳴のような一喝に、周囲の部下たちは耳を塞いだ。
「バルト。戻ってきてくれたか」
カムランの声に安堵が滲む。
カムランはバルトを懐柔するにあたり、偽造した皇帝の勅書は使わなかった。
集めた大宰相の不正の証拠をそのまま提示し、ダーリシュの暗号文や地図も隠さず見せて共闘を求めたのだ。
バルトは大宰相の不義に憤り、皇帝と帝国を救うためカムランの要請を呑んだ。
帝都防衛大隊を郊外へ引かせ、駐屯地に引きこもったと見せかけて、大宰相が隠し持つ十三の備蓄基地を急襲する準備を進めていたのである。
バルトは顔に深い皺を刻みながら、無骨な笑みを浮かべた。
「応ですとも。カムラン殿下もご無事で何より」
「備蓄基地も落としてくれたか」
「問題なく。別動隊が次々と制圧しております。没収した備蓄や物資は、アルマン殿下の軍に送っています。兵站が続かず苦労されたでしょうが、腹いっぱいメシを食えば兵たちも息を吹き返すでしょう」
「助かる!」
バルトは背後を振り向き、斧を振り上げた。
「各国の使節を保護せよ。陛下とヤーヤ殿下をお救いするのだ!」
護衛の陰に隠れた大宰相が、血相を変えて叫ぶ。
「陛下を渡すな! 奥にお連れせよ」
両軍の兵士が激突し、金属音と怒号が広間に響き渡った。
絢爛たる大晩餐会は、一瞬にして凄惨な戦場へと化す。
長卓はひっくり返り、料理や銀の器が床に散乱し、絨毯には生々しい血飛沫が降りかかる。
使節や貴族たちが悲鳴を上げ、床を這い回りながら逃げ惑う。あちこちから剣戟や破砕音が轟き、広間は大混乱に陥った。
「た、大変です!」
そこへ裏口から別の伝令が、もつれる足で駆け込んできた。
「今度は何だ!」
大宰相が叫ぶ。伝令は呼吸を荒げながら、信じられない凶報を口にした。
「軍が……! 第一皇子アルマン殿下の軍が帝都の背後を突いて現れました。精鋭の軽装騎兵です!」
「ば、馬鹿な」
大宰相は驚愕で目を見開いた。
「アルマンの軍は黄鉄門関で足止めされているはずだ。あの堅牢な関所を抜けるには、どれほど急いでも数週間はかかるはずだ」
「ですが、あの旗は間違いなくアルマン軍です」
ザイードたちが使っていた「黒の回廊」の存在を知らないメリクは目を白黒させた。
アルマンはバルトからの補給を待たず、弟の知略を信じて賭けに出た。
飢えに耐えつつ全軍から選り抜きの精鋭を集め、自ら軽装騎兵の決死隊を率いて昼夜兼行の強行軍で背後を突いたのである。
「どういうことだ。一体何が起きているのだ」
バルト率いる防衛大隊だけでも手一杯だというのに、アルマンの精鋭部隊までもが押し寄せてくる。
大宰相は狐につままれたような顔をし、自らが築き上げた権力図が崩壊していく様に茫然とするしかなかった。




