第55話 帝国の大晩餐会と先制の皿「オアシスと海の沈黙」
大帝国アルザ・ヴァーンドの中枢、皇宮の奥に位置する太陽の間。
歴代の皇帝たちが揺るぎない威容を示してきた絢爛たる広間は、今、大勢の賓客を迎えていた。
高い丸天井からはクリスタルのシャンデリアが吊るされ、大小さまざまな蝋燭が火と光を揺らめかせている。
大理石の床には深紅の絨毯が敷き詰められ、希少な蘭の花が濃厚な香りを放っていた。
しかし、空間を支配していたのは祝祭の空気ではなく、肌を刺すような緊張感であった。
広間の中央に設えられた巨大な長卓。
その数段上の最上座には、皇帝が椅子に寄りかかるようにして沈んでいた。瞳は焦点を結んでおらず、ぼんやりとしている。阿片の煙が、大帝国の主から正気を奪い去っていた。
皇帝の横には、第二十三皇子ヤーヤが座っているが、薬でも盛られたのか意識を失いぐったりとしている。これだけでも異常なのに、大宰相を恐れてか誰も指摘できない。
二人の右隣、実質的な玉座に腰を下ろしているのが大宰相メリクだった。
紫絹の法衣を纏い、太い指に数多の宝石の指輪をはめている。彼は鋭い目で居並ぶ賓客を睥睨していた。
王侯貴族や特命使節たちの顔色は一様に優れない。
広間の壁際には、大宰相の懐刀である隻眼の将軍ヴァイエルと彼が率いる私兵が立ち並び、客たちを威圧している。
一方の主厨房。
大宰相は、今宵の宴のために最高級の食材を用意させていた。シャハラはそれらを退け、カムランたちが密かに手配した別の食材を使用した。
「赤い泥が混じった粗塩」「水で薄められた南方の糖蜜」「等級の低い小麦」「硬くて塩辛いだけの干し肉」などである。
腕を振るい、あえてこの粗悪な食材を用いて、宴の料理を作り上げた。
ただ不味い料理を出すのではない。卓越した技術によって、食べられるものに昇華させてはいるが……彼女は確信していた。
真に味のわかる者であれば必ず違和感を持つだろう。「帝国の威信を懸けた晩餐会に、なぜこのような食材が使われているのか」と。
料理が美味であるほど、素材の不自然さが浮き彫りになる。
いよいよ万国大晩餐会の開始を告げる銅鑼の音が響き渡った。
「前菜の配膳を始めよ」
給仕長の声が響き、銀の蓋に覆われた数百の皿が次々と女官たちの手に渡っていく。
シャハラはファヒームと共に仕上げを終え、運ばれていく料理を見送った。
温度、香り、配膳のタイミング。すべて計算通りだ。
彼女は小さく息をつき、包丁を布で拭った。自分にできるのはここまでだ。あとはカムランに託すしかない。
太陽の間では、女官たちが洗練された足取りで、客たちの前に料理を配膳した。大宰相は自らの皿を一瞥し、立ち上がった。手には黄金の酒杯が握られている。
「諸君。偉大なる皇帝陛下に代わって、今後は私が帝国の未来を導く。ひいては帝国への忠誠を誓うため……」
野太く野心を孕んだ声が響き渡る。客たちはこわばった顔で杯に手を伸ばしかけた。
その時だった。
突如として、広間の奥側から給仕たちと共に武装した一団が入ってきた。近くにいた客たちがざわめく。
「何ごとか」
大宰相が不快そうに扉の方を睨みつけた。
ざわめきが波のように引いていく中、長靴の硬質な靴音が広間の床を打ち鳴らした。
現れたのは、帝国の正当なる血筋を体現するような豪奢ないで立ちの男だった。
夜闇を思わせる極上の黒絹で仕立てられた上衣には、皇帝一族にのみ許される金糸の精緻な刺繍が施され、歩を進めるたびにシャンデリアの光を受けて煌めく。胸元には、誇り高き帝国の鷹を象った勲章が輝いている。
腰に巻かれた赤と銀の帯には、豪華な宝剣が差されていた。柄にあしらわれた金細工と大粒の黒真珠が、皇子としての気品を際立たせている。
何よりも列席者を圧倒したのは、彼がまとう高雅な空気だった。
私兵が放つ剣呑な気など意に介さず、その射抜くような双眸で、ふんぞり返る大宰相を見据えている。
給仕用の通路から現れたにもかかわらず、少しも臆することなく堂々としている。
カムランだった。
背後にはビジャンをはじめとする数人の護衛たちが、一糸乱れぬ動きで影のように追従している。
彼らは今、厨房を通って宴に踏み込んできたのである。
「カムラン殿下……?」
大宰相は突然の闖入者に目を凝らし、警戒を露わにした。
「大宰相閣下」
カムランの涼やかな声が広間に響き渡った。
「帝国の威信を懸けた万国大晩餐会に、皇族たる私を呼び忘れるとは。随分と底の浅い宴を催すものだ」
カムランは長卓の正面までやってきた。
「私は第十二皇子カムラン。久方ぶりに父帝の健在と弟の立太子を言祝ぐために来た。さあ、私のための席を用意してもらおうか」
使節たちは何が起こるのかと、息を殺して見守っている。
大宰相はふんと鼻を鳴らした。
「恐れながら、この場に殿下を招待した覚えはございませんな。どうやら混乱しておられるご様子」
冷静を装ったまま手を挙げる。
「招かれざる客のお帰りだ。丁重に送って差し上げろ」
合図と共に、私兵たちが一斉に剣を構える。
カムランは動じなかった。優雅な微笑を浮かべ、着座している各国の使節たちを見渡した。
「これは心外だ。客の一人や二人増えたところでたいしたことはあるまいに、閣下は何を焦っておられるのか。皇帝陛下と諸国のお歴々の前で、帝国の皇子に理由もなく暴行を加えるおつもりか。自らを非文明国の野蛮人であると証明したいなら止めないが」
使節たちの間に動揺が走った。
確かに宴にやってきただけの皇子を追い出すのは、いかがなものか。あまりにも、大人気なさすぎやしないだろうか。
それとも皇子を排除しなくてはならない後ろめたい理由でもあるのだろうか。
大宰相は視線を敏感に感じ取り、忌々しげに舌打ちをした。
「……よかろう」
大宰相は再び手を上げ、私兵たちに合図した。
「カムラン殿下に席を用意してやれ」
大宰相の傲慢さは、いまだ揺らいではいなかった。
ここで第十二皇子を同席させ、圧倒的な力の差を見せつけるのも悪くない。
末席に椅子が用意されると、カムランは優雅な所作で腰を下ろした。
「では、晩餐会を始めよう」
大宰相が黄金の杯を掲げ、傲然と言い放った。
「すでに料理が運ばれている。皇帝陛下からの格別のもてなしだ。諸君、心して味わうがいい」
女官たちが一斉に銀の蓋を開けた。
その途端、熱砂を巻き込んだ風のような、甘くスパイシーな香りが広間を満たした。
純銀の皿の上に鎮座していたのは「オアシスと海の沈黙」と名付けられた前菜だった。
透き通るほど薄く削られた数種類の根菜――紫玉ねぎ、黄人参、翡翠のような瓜――など砂漠に自生する希少な野菜が、大輪の薔薇の形で盛り付けられている。
野菜の瑞々しい艶を引き立てる黄金色の香油がかけられ、花びらの表面には、砕かれた塩が朝露のごとく散りばめられていた。
使節たちは料理の美しさに感嘆の吐息を漏らし、銀の三叉匙を恐る恐る伸ばした。
広間にシャクシャクと咀嚼音が響く。野菜の甘みと塩気が絡み合い、使節たちの顔に新鮮な驚きが広がる。
だが大宰相の派閥に属し、上座に陣取る官僚や貴族たちは別の反応をした。彼らは不自然に咀嚼を止め、苦渋に顔を歪めて俯くしかなかった。
「どうした兵部卿。手が止まっているな」
カムランは自らの皿には手をつけず、揶揄するように近くの貴族に語りかけた。
「野菜が舌に合わなかったか? いや、違うな。塩にある『独特の赤い泥の雑味』……その後味に、貴公らは心当たりがあるのでは?」
兵部卿はビクッと肩を震わせた。
カムランの言葉を引き金に、彼らの脳裏にかつて視察先で検分した劣悪な配給品の記憶が鮮明に蘇る。
使節たちは「帝国の珍しい風味」程度にしか感じていなかったが、この塩の正体を知る者にとっては、自らに突きつけられた刃そのものだった。




