第53話 砂漠の宝石・透かし彫りのマハシーと母の思い出<下>
大ぶりに切って口に運ぶ。
途端、豚肉の旨味とニンニクの風味がガツンと舌を打ち据えた。
見た目の繊細な美しさからは想像もつかない、身体を芯から滾らせる圧倒的な食べ応えである。
スパイスの複雑な刺激を追いかけるようにピスタチオが香ばしく弾け、干し杏の酸味が爽やかに通り抜ける。
野菜の甘みと肉の重厚な味が、透かし彫りの細工のおかげでソースと渾然一体となって舌の上でとろけた。
「美味い。これは止まらんな」
カムランは嬉しそうに相好を崩すと、ナスのマハシーをぺろりと数口で平らげた。薄焼きのパンを手でちぎり、皿に残った野菜のソースを拭って口に放り込む。
続いてズッキーニのマハシーを皿に取る。
これは山羊の熟成チーズを乗せて頬張った。濃厚な塩気が、マハシーのスパイシーな味わいをさらに引き立てる。
「お腹は大丈夫?」
微量とはいえ赤唐辛子やニンニクが入っているため、シャハラはカムランの胃腸を案じた。
「大丈夫だ。お前の料理を食べるようになってからは、胃痛もないし腹も下さなくなった。むしろ食べると元気が出る」
カムランの内に、久方ぶりのシャハラの手料理が染み渡っていく。
豪快ながらも、料理の奥深い味をしっかり味わう彼を見て、シャハラはじんわりと胸が温かくなった。
「いっぱい作ったからいっぱい食べて」
「ああ。お前も早く食べろ。冷めるぞ」
シャハラは照れくさそうに微笑み、自らも料理に手を伸ばした。皿にとったマハシーを少しずつかじる。
食材は火がしっかり通っており、濃いめの味付けが淡白なパンによく合った。パンにマハシーを挟んで食べても美味しい。汁が滴るのを舐めとるのもご愛嬌。火鉢で作った割には上出来である。
師匠の教えを守りながらも、自分なりに世界を広げた味を彼女もしっかり堪能した。
燭台の火が、部屋に柔らかな影を落とす。
食後の地封茶をすすりながら、カムランがぽつりと言った。
「……砂漠の宝石か」
「どうしたの?」
独り言のような呟きに、シャハラが反応した。
「マハシーは一つの物語のようだと思ってな」
カムランは頬杖をつくと、どこか遠い目をした。
「私の母は……砂漠の踊り子だった」
茶器を片付けていたシャハラの手が止まり、思わずカムランの顔を見つめた。その視線を感じながらも、カムランは続けた。
「元々帝国の人間ではなかった。大陸の東には、ラカン砂漠よりもはるかに広い砂漠があるそうだ。そこに住まう部族の生まれで、褐色の肌に金色の髪を持っていた。旅の一座であちこちの国を回っていたらしい。それが、たまたま巡行中の皇帝の目に留まってしまった。皇帝は座長に幾つかの宝石を投げ与え、母を無理矢理連れ去った」
カムランの声には怒りも悲哀もなかった。古の物語を紐解くように淡々としている。
「気まぐれで手がつき、運悪く私を身籠ってしまった後……母を待っていたのは女たちの壮絶ないじめだった。異国の生まれで、後ろ盾を持たない母は格好の標的だったんだろう。臨月を迎えた後に部屋を追い出され、大きな腹を抱えて後宮を彷徨う羽目になった」
シャハラは砂宮で見た、打ちひしがれた女たちの姿を思い出した。
あの中にも、カムランの母親と同じ目に遭った者がいたのだろうか。
皇帝の寵愛を得たところで、見捨てられてしまえば砂宮送りの憂き目に遭う。子を孕んでいても守られない。後宮とは、真に美しき地獄なのだ。
「だが救いの手が来た。回廊に倒れ、寒さと絶望に震えていた母をアルマンが見かねて保護し、自邸に連れ帰った。私は兄の屋敷で産まれ、兄に守られて育ったのだ」
カムランの顔に、柔らかなものが滲んだ。
十九歳年上のアルマンは、弟のカムランを我が子のように可愛がった。屋敷にいる時はいつも構ってくれたし、都の市場や遠乗り、狩りにもよく連れていった。
カムランは物心つくまで、アルマンが父親だと信じていた。
「皇帝には認知されたものの、十二歳で宮城に戻されるまで私は皇子の待遇ではなかった。皇子の証である『皇鷹』も支給されなくてな。鷹を持っていないと狩りに参加できない。だから兄はパルヴィーンをくれたのだ」
猛々しい黒鷹は、長兄からの愛情あふれる贈り物だった。
「どちらかというとスハイルの方がよかったんだがなあ。あれはおっとりして優しいから」
カムランが苦笑しながらぼやく。シャハラは先日の脱出劇を思い出しながら言った。
「私はパルヴィーンでよかった。後宮を出る時、パルヴィーンが助けてくれた。兵士にも立ち向かっていくなんて本当に勇敢な子」
「そうだな。幼い頃の私は軟弱で、ことあるごとに泣いてばかりいた。兄は私に必要なのは、戦士の気骨と心構えだと考えたんだろう。パルヴィーンに追い回されたおかげでだいぶ鍛えられた」
「お母さんはどうしているの。元気?」
するとカムランはどこか寂しそうに微笑んだ。
「元気にしてくれているといい」
「わからないの?」
「ああ」
カムランの母は出産後、アルマンの妃の侍女となって仕えていたが、カムランが十歳の時に屋敷に出入りしていた商人と恋仲になった。
一緒になることを望み、息子を置いて駆け落ちした。カムランはそのことも簡潔に話した。
「でも母を恨んだことは一度もない」
カムランはきっぱりと言い切った。
「あまり意識したことはないが、私は顔も仕草も皇帝にそっくりらしい。母は私の世話をしつつも、時々ひどく悲しそうな顔をした。私を見るたびに、辛いことを思い出していたはずだ。それでも十年一緒にいてくれた」
数個の宝石と引き換えに皇帝に拉致され、人生を狂わされた母。だが、その犠牲がなければ自分はこの世に誕生しなかった。
カムランはどこか自嘲気味に目を伏せた。
「母には好きな男と幸せに暮らしていて欲しい。子を身籠るようなことをしておきながら見捨てた男に、操立てする必要はないさ」
カムランの声には、強がりや皮肉ではなく一人の人間として母の人生を尊重する響きがあった。
屋敷を出ていく母を見送った時、悲しみがなかったわけではない。寂しかったし、見捨てられたような気分にもなった。
それと同時に、子供心に「もういいだろう」とも思っていた。母を帝国や皇帝や息子という鎖から解き放ち、自由にしてやりたかった。今は母の選んだ道に一種の誇りすら抱いている。
シャハラは、達観したようなカムランの横顔を見つめた。
「私には師匠しかいなくて」
言いながら、卓の隅に置かれた形見の包丁をそっと撫でた。
「今も家族がどういうものかよくわからない。でも……一番上のお兄さんや、お母さんのことを話す時のあなたは優しい顔をしている。そういうのはとてもいいと思う」
飾らない素朴な言葉に、カムランはふっと唇を綻ばせた。
「寂しいのか?」
シャハラは戸惑うように目を伏せ、素直に頷いた。
キアンを失った喪失感は、常に彼女の中で痛みを伴って疼いている。
「少し」
消え入りそうなシャハラの声に、カムランはどこか拗ねたように言った。
「私がいるじゃないか」
「……うん」
砂宮を出て、後宮も出て、今はカムランと安全な場所にいるのだという安心感が、彼女を包み込んだ。
「また料理ができるようになるといいんだけど」
厨房へ行きたいとシャハラは思った。
広い調理台に火の燃えるかまど、手を伸ばせば届く調理器具と多種多様な食材。スパイスの袋から漂う香り。
砂宮に戻りたいとは思わないが、厨房にいるのが一番落ち着く。
「兄が来れば片がつく。あと少しの辛抱だ」
カムランは、早くシャハラを自由に歩けるようにしてやりたいと思うのだった。




