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シャハラと兵站皇子の盤上百味録  作者: kiyoaki
第四章 三すくみの盤上決戦

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第51話 ミフラーン軍の逆襲と第三皇妃の脱出

 ザイードの館での惨劇から一夜明けた夕刻。

 事後処理に奔走し、疲労の極みに達していたカムランは自室の長椅子で仮眠を取っていた。

「殿下! カムラン殿下!」

 血相を変えた従僕が転がり込んできたことで、浅い眠りは破られた。飛び起きたカムランが反射的に叫ぶ。

「何事だ」

「宮城が……万国の門が打ち破られました。ミフラーン兵です。彼らはまっすぐ後宮へ向かっております」

「何だって」

 ザイード暗殺の報は、カムランの想定よりも遥かに早く、都に接近したミフラーン家の指揮官チャウキのもとへ届いた。

 そして、彼を制御不能の暴走に導いたのには、一つの悲劇があった。

 ザイードの館でヴァイエルたちに惨殺された者たちの中には、チャウキの愛娘がいた。側女として仕えており、ザイードが即位したあかつきには妃にしてもらおうと目論んでいた。一族の未来を担う皇子と溺愛する娘。その両方を虫ケラのように殺されたチャウキは激怒した。

 このまますごすごと退散などできるものか。なんとしても大宰相に一矢報いてやらねば気が済まない。

 彼は宮廷闘争のルールなど、犬に食わせろとばかりにかなぐり捨てた。

「第三皇妃をお助け参らせる」という大義名分を掲げ、全騎兵で都を一気に駆け抜け、宮城を強襲したのである。

 その疾風迅雷の動きは、大宰相も予想できなかった。

 目を血走らせたチャウキが、馬上から号令を発する。

「行け! パルヴァネ皇妃をお救いせよ!」

 地を揺るがすような怒号と、無数の鉄が激突する不吉な金属音。すでに帝国の象徴である万国の門は打ち破られ、ミフラーン兵が宮城内へなだれ込んでいた。

 彼らは怒りのままに周辺の者たちをなぎ払い、一直線に後宮へ向かう。彼らが通り過ぎた後には、巻き添えを食った官吏や下女たちの死体が転がっていた。

 報告を聞いたカムランは唖然とした。

 バルト率いる帝都防衛大隊が不在の今、怒り狂った騎兵隊を防ぐ手立ては大宰相にもない。

 だが、彼らが後宮に向かったという。

 ミフラーン軍の目的は、皇帝の身柄を押さえることでも大宰相を弑すことでもない。

 第三皇妃を脱出させることだ。大宰相もヴァイエルも、しばらくはこの混乱を収めるために総力を挙げざるを得ない。

「ビジャンを呼べ。馬を出せ」

 シャハラを助け出す千載一遇のチャンスと悟ったカムランは、すぐさまビジャンたち数名を連れて馬に乗り、混乱の坩堝と化した外廷へ飛び出した。


 後宮へ続く回廊は、すでに地獄さながらの光景を呈していた。ミフラーン兵が立ちふさがる衛兵を斬り伏せ、薔薇の宮を目指して突き進む。

 逃げ惑う女官たちの悲鳴が響き、なぎ倒された燭台や香炉から燃え移った炎が壁を黒く焦がしてゆく。

 カムランたちは狂乱と刃の嵐の中を駆け抜け、最も奥にある砂宮へ急いだ。砂宮の前には、未だに大宰相の命を受けた封鎖部隊が陣取っていた。

 とはいえ、聞こえてくる騒ぎと黒煙に彼らも動揺を隠せないでいる。カムランは馬から降りると、堂々と兵士たちの前に進み出た。

「貴様ら、ここで何をしている。反逆者どもが暴れている。早く鎮圧に行け」

「し、しかし我々は大宰相閣下より、この宮の封鎖を……」

「宮城が制圧されれば、大宰相閣下の命も危うい。お前たちは暴徒を食い止め、閣下をお守りするのだ。急げ!」

 カムランの剣幕と、迫る危機に背中を押され、兵士たちは慌てて本宮の方角へ走っていった。

 残された数名の門番が顔を見合わせた瞬間、カムランは背後のビジャンへ目配せした。

 ビジャンたちは音もなく動き、残った兵士たちを次々と斬り伏せた。門の錠が落とされたのを確認すると、カムランはビジャンに向き直った。

「兵士の死体は暴徒の仕業に見せかけろ。お前たちはこのまま突入し、アニサ王女を連れて『薔薇の宮』へ行け」

「薔薇の宮、ですか」

「ああ。ミフラーン軍の目的は第三皇妃パルヴァネの救出だ。間もなく彼らの護衛のもと、皇妃が後宮を脱出するだろう。お前たちは脱出の波に紛れ込み、王女を外に出せ」

「承知いたしました。殿下はいかがなされるのですか」

「私は白蓮の宮へ向かい、守りを固める指揮を執る。そのために後宮に入ったことにする。すぐに戻る。頼んだぞ」

 そう言い残すと、カムランは再び馬に跨り、本宮に向かって駆けていった。ビジャンは部下たちと共に砂宮に入った。


 夕闇を濃くする空に、黒い影が円を描くようにして舞っている。

 シャハラは上空のパルヴィーンに気づくと、騒ぎを確かめようと厨房を出た。

 壁の向こうからは、人の声や激しい金属音が聞こえてくる。その直後、分厚い扉が開け放たれ、武装した男たちが入ってきた。

 居合わせた女たちが悲鳴をあげる。シャハラは毅然として前を見据えた。

「アニサ王女!」

 駆け寄ってきたのは、覆面をしたビジャンとその部下たちだった。

「あなたは?」

「私はビジャン。殿下の指示でお迎えに上がりました。現在、後宮はミフラーン家の襲撃を受け大混乱に陥っています。薔薇の宮の第三皇妃が、間もなく一族に守られて後宮を脱出なさる。我々はそれに便乗して外へ出ます」

 早口で告げるビジャンに、シャハラは頷いた。

 彼女はすぐさま厨房に引き返し、師匠の包丁を持つと厚手の布に包んで懐に忍ばせた。

 自室に戻り、分厚いヴェールを巻きつけて顔を隠す。

 その傍らで、ビジャンの部下たちがアニサ王女の遺品である宝石、装身具やドレス、衣類を詰めた布袋を肩に担ぎ上げた。

 シャハラは王女ではないが、この品々が彼女の財産であり、正真正銘のアニサ王女と証明してくれる。置いていくわけにはいかなかった。

「こちらへ」

 ビジャンの案内で、一行は宮を駆け抜けた。

 バヒジや宦官たちは扉が開いた時点で逃げ出し、あとは老いた女たちが放心したようにうずくまっていた。

「扉は開いた。あなたたちも逃げて!」

 シャハラは女たちに向かって叫んだ。

 しかし、長きにわたる冷遇と恐怖に飼い慣らされた女たちは、虚ろな目で首を横に振るばかりだった。

 この人たちは高貴な生まれで何不自由なく育ったが、それゆえに何もできず、どこにも行けないのだ……と思うと、シャハラは胸が塞がるような思いがした。

「王女さま、お早く」

 ビジャンに急き立てられ、シャハラは背を向けて走り出した。

 砂宮を一歩出ると、そこは戦場だった。

 至る所でミフラーン兵と衛兵が切り結んでいる。シャハラはビジャンたちに守られながら、彼らの間を駆け抜けた。

 薔薇の宮の近くまで辿り着くと、夜闇に巨大な松明の群れが浮かび上がった。先導の騎兵が飛び出してくる。

 ミフラーン兵が肉の壁となって守る中央には、絢爛たる巨大な輿があった。宦官たちが担ぐ輿の上に鎮座しているのは、パルヴァネ皇妃である。

 唯一の皇子ザイードを殺され、一族の帝位継承という野望は潰えた。これ以上、後宮に留まったところで未来はない。いずれは新皇帝から粛清の憂き目に遭うだろう。一族に守られながらも、敗残兵のごとく宮城を脱出せねばならない屈辱と悲哀はいかばかりか。

 しかし、白紗の帳の奥に座したパルヴァネは、絶望を微塵も感じさせず、昂然と胸を張っていた。赤金色の髪は高々と結われ、背筋は真っ直ぐ伸び、顔には傲慢さと気高さを湛えている。

 皇妃の絶対的な気品とは対照的に、周囲は大混乱に陥っていた。輿の前後は、すがるようにして女官たちが取り囲み、大荷物を抱えた下女が必死についてゆく。女主人に置いていかれたら、命の保証はない。

 パルヴァネの輿を止めようとする大宰相の兵が、ミフラーン兵の剣の柄で殴り飛ばされ、石畳に転がる。そのまま後続の者に踏み潰される。

 黒煙と火の粉が舞い散る中、悲鳴や哀願が入り混じった叫びと呻き声が辺りに響く。

「今だ。あの群れに紛れ込むぞ」

 ビジャンの合図と共に、シャハラたちは下働きを装い、後続の荷物持ちの列に飛び込んだ。

 誰もヴェールを被った娘や荷物を担いだ男たちに気を留める余裕はない。このまま人の波に乗れば、後宮から出られる。

 シャハラが希望を持った次の瞬間だった。

「皇妃を逃がすな。全員捕らえろ!」

 横合いの回廊から、大宰相の精鋭部隊が脱出を阻止すべく飛び込んできた。

 両軍が激突し、人の波が弾け飛んだ。

「あああっ!」

 シャハラも女たちと共に突き飛ばされた。

 ビジャンの声が聞こえたような気がしたが、あっという間に彼の姿は見えなくなった。床に倒れ込んだ彼女の腕を、兵士が掴んだ。

「何だこの女は。怪しい奴め、来い!」

「嫌だ。離して!」

 シャハラは兵士の腕を叩き、逃れようと身を捩った。

「女たちが逃げるぞ。連れ戻せ!」

 そのままずるずると引きずられる。このままでは逆戻りだ。

 シャハラが懐の包丁へ手を伸ばそうとしたその時。

 ヒュンと風を切る音がして、漆黒の塊が飛来した。

 パルヴィーンだった。彼女はシャハラを引きずっていた兵士に猛然と襲い掛かった。

「ぎゃああっ!」

 目を突かれた兵士が手を離した隙に、シャハラは地面を蹴るようにして立ち上がった。後宮と外廷を隔てる巨大な黒檀の門は、目と鼻の先だった。

 かつてシャハラは、この門を通って後宮に入った。

 それは彼女の意志ではなかった。今は違う。自分の意志でここを出ていく。カムランがその機会を与えてくれた。

 門は、不吉な重低音を立てて閉ざされようとしていた。

 大宰相の軍が後宮を封鎖しようとしている。

 パルヴァネ皇妃の輿は辛うじて門を抜けようとしていたが、その背後では女官たちが押し合いへし合いし、兵士たちと激しくもみ合っていた。

「ああっ……! 待って!」

 シャハラが駆け出した時、扉の隙間は半分ほどに狭まっていた。

 無理だ、間に合わない。またここに閉じ込められてしまう。

 絶望がシャハラの足を止めようとした時、石畳を蹴り砕くような激しい蹄の音が聞こえてきた。

 一頭の駿馬が矢の如く駆け込んでくる。

 白蓮の宮の守備隊に顔を見せて指示するや否や、全速力で戻ってきたカムランだった。

 彼は覆面をしていたが、夜風に乱れる艶やかな黒髪と、強い眼差しがシャハラを射抜いた。

「シャハラ――ッ!」

 喉が裂けんばかりの絶叫が響き渡った。

 黒檀の門扉は、容赦なく音を立てて閉まりかけている。

「手を伸ばせ! 跳べっ!」

 カムランは馬の腹を蹴り、崩れ落ちた回廊の瓦礫を跳び越えた。

 馬の蹄が火花を散らす。炎の照り返しを浴びて、カムランの漆黒の髪は血のような赤色に染まった。

 シャハラは地面を蹴った。

 閉ざされゆく門の隙間に飛び込む。追いすがる兵士の槍の穂先が迫り、鋭い切っ先がヴェールを切り裂いた。

 転倒しそうになる彼女の視界に、馬の背から限界まで身体を乗り出したカムランの姿が映る。

 二人の手が宙で激しく交錯した。

 互いの指先が、手のひらが固く絡み合う。カムランは腕が千切れんばかりの渾身の力でシャハラを馬の背に引き上げた。

 シャハラを強く抱き寄せたまま、駆け抜けた刹那。

 ドォンという鼓膜を破るような衝撃音と共に、黒檀の門が閉ざされた。間一髪、扉が鼻先で閉まる寸前にすり抜けた。

 前方では、ミフラーン軍と大宰相の軍が激しく切り結んでいる。パルヴァネの輿は血路を開きながら、正門に向かって突き進んでゆく。輿に従っていた女たちは一人、また一人と剥がされ、後宮側へ引きずり戻されていった。

 カムランはシャハラを乗せたまま、外廷を疾風のごとく駆け抜けた。裏手に入り、大宰相の兵たちを避け、やがて目立たない暗がりに馬を放った。

 そこからはシャハラの手を引いて足早に小路を抜け、庭園や藪の中に身を潜めながら進んだ。

 回り道を繰り返して、ようやく辿り着いたのは外廷の隅にあるカムランの居室だった。

 扉を開け、すばやく中に潜り込む。内側から鍵を下ろした瞬間、外の狂騒は分厚い壁に遮断された。

 蝋燭の灯りがともった静かな部屋で、カムランはようやくシャハラの手を離した。

 泥や砂に汚れ、ヴェールも破れてしまった彼女を見つめる。シャハラは幽閉生活で幾分やつれてしまったように見えた。

「怪我はないか」

 その声を聞いた瞬間、シャハラは張り詰めていた息を吐きだした。

「ない。たぶん……」

 目の辺りが熱い。

 ついに後宮から出たという実感が、涙となってあふれ出した。

「でもみんなが。ビジャンさんたちとはぐれてしまって……」

「大丈夫だ。あいつらなら上手く立ち回る。ほとぼりが冷めるまでどこかに身を隠すさ。後宮から出られないお前を助け出す方が先だった」

 カムランも大きく息を吐いた。

 シャハラはその場にくずおれそうになった。咄嗟に腕を差し出したカムランに抱き留められる。

 二人は抱き合ったまま、しばらくじっとしていた。


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