第50話 血風と戦慄と
帝都の北に広がる荒野を、一つの巨大な影がうねるように南下していた。
夜半だというのに、松明は焚かれていない。
馬の蹄には厚い布が巻かれ、武具の触れ合う音すら抑えられている。
彼らはザイードの招聘に応じ、密かにギダ高地を出立したミフラーン家の精鋭騎兵であった。
黒の回廊を抜けてきた数はおよそ三千。
これまで密輸で数えきれないほど通った道であるため、灯りがなくとも動ける。
「都の防衛とアルマン軍迎撃」という大義名分を掲げつつも、彼らの真の標的は、宮城の制圧と大宰相の首である。
夜が明ける頃、都の近くに待機し、ザイードと合流する。皇子と共に入城し、外廷をすみやかに制圧する算段だった。
指揮官は、第三皇妃パルヴァネの弟チャウキである。
姉とよく似た鼻梁と、鋭い三白眼を持つ男だった。砂風に焼けた浅黒い肌に豊かな黒髭を蓄え、筋骨隆々とした体躯を分厚い革鎧で包んだ姿は野心と活力に満ちている。
彼は馬を走らせながらも、頬が緩むのを禁じえなかった。
ようやくこの時が来たと思うと感慨深い。これまで陰に日向に、姉と姉の産んだ皇子ザイードを盛り立ててきた。
その苦労があと数日で報われる。甥のザイードが即位すれば、ミフラーン家の天下となる。
チャウキは都に一番乗りして手柄を立て、新皇帝となるザイードの覚えをめでたくしたかった。彼は時折背後を振り向いて檄を飛ばしつつ、荒野を一気に駆け抜けた。
同刻。
都にあるザイードの居館では主が一人、勝利の美酒に酔いしれていた。
長椅子に身を横たえたザイードは、酒を飲みつつ、愛玩する白鷹に手ずから餌を与えていた。傍らには磨き上げられた武具が置かれ、準備は万端である。
あと数時間もすれば、チャウキ率いる騎兵隊がやってくる。ミフラーンの軍兵の中でも精鋭中の精鋭だ。まず失敗することはない。目障りな大宰相は捕らえられ、この足元に這いつくばることになる。
すべてはカムランの働きのおかげだった。
ザイードも彼の成果は認めていた。バルト軍をまんまと追い払った手際はたいしたものだ。
だが、即位した後は別だ。一度裏切った人間は、二度三度と裏切るもの。あの小賢しい弟は遠からず始末した方がいいだろう。残されるアニサ王女も不憫ゆえ、すぐに後を追わせてやろう。
ザイードの端麗な顔に、恍惚の笑みが浮かんだ。
一方、宮城からは別の一手が繰り出されようとしていた。
権力の頂点に君臨する老怪物は、皇子たちの策を冷徹に測っていた。宰相府にて、大宰相メリクは届けられた出所不明の密告状を卓に放り投げた。
禿げ上がった頭部と、深い皺に覆われた顔。尖った鼻と爬虫類のような無機質な光を放つ狡猾な眼。細身だががっしりとした身体からは、帝国の暗部を牛耳ってきた自負と威圧感が放たれている。
「馬鹿どもめ」
メリクは、喉の奥でくぐもった笑いを漏らした。
カムランに関しては、当初の目論見は別にあった。第十二皇子の執着を知ったメリクは、アニサ王女、つまりシャハラを盾にしてカムランを脅すつもりでいた。
カムランは第一皇子派であり、白蓮の宮にもよく出入りしている。アルマンの動きや企みを、根こそぎ吐かせようと考えていた。その過程でシャハラが死んだとしても一向に構わなかった。所詮は急造の身代わり、いくらでも替えがきく。
ところがカムランは、予想外の行動に出た。
恩人であるアルマンを裏切り、ザイードに接近したのだ。
「とはいえ、いかにも若造が考えそうな青臭い策よな。ミフラーン軍を引き入れたという事実だけで、逆賊として討ち果たす理由にできように」
大宰相の傍らには、将軍ヴァイエルが影のように控えている。
「閣下、いかがなさいますか。ミフラーン軍が都に入る前に、我が兵を向かわせ叩き潰しましょうか」
「いや、まともにぶつかればただではすまん。ファルハを落としたようにはいくまいて。バルトの動きも読めぬしな」
メリクは目を細め、しわがれた声で命を下した。
「蛇は頭を落とせば死ぬ。わざわざ胴体を叩き合う必要はない。ヴァイエルよ。ザイードの寝首を掻け」
「よろしいのですか」
「構わん。むしろ油断しきっている頃合いだ」
「では」
ヴァイエルは会釈すると、音もなく執務室を後にした。
深夜、カムランはいつもの従順な弟の仮面を被り、ザイードの屋敷を訪れた。夜が明ければザイードが動き出す。その前に最後のひと押しだ。
ところが、邸宅の裏門前まで来て異変に気付いた。あまりにも静かすぎる。普段ならば篝火が焚かれ、武装した兵士が目を光らせている門に人影がない。門扉は半ば開け放たれ、闇に向けてぽっかりと口を開けている。
さらりと乾いた風が吹き抜けた。
夜咲きの薔薇のむせ返るような香りに混じって、生温かくすえた匂いがカムランの鼻腔を突いた。……鉄錆の匂い。血の匂いだった。
「……まさか」
頭が警鐘を鳴らすと同時に、カムランは馬から飛び降り、屋敷の中へ駆け込んだ。中に進むほどに血の匂いが濃くなっていく。邸内のあちこちに凄惨な光景が広がっていた。
ザイードを守っていた腕利きの護衛が、至る所に転がっている。ある者は喉を掻き切られ、ある者は胸当てごと心臓をひと突きにされていた。
抵抗した痕跡も乏しい。暗闇に紛れた熟練の暗殺部隊によって、瞬く間に蹂躙されたのだ。
高価な絨毯が赤黒い血を吸って重く沈んでいる。どこを巡っても生きている者の気配がしない。カムランは息を荒げながら、ザイードの居室へ急いだ。
こんな事態は起こり得ないはずだった。
ザイードはアルマンに唯一拮抗する有力な皇子だ。大宰相が動くにしても、軍同士の衝突を選ぶと考えていた。大宰相はカムランの予想を遥かに上回る冷酷さと、決断力を持っていた。
ザイードの部屋の扉は、蝶番ごと壊されて無残に傾いていた。カムランは震える手で扉を押し開けた。
室内には、重苦しい死の気配が充満していた。
絢爛を極めた部屋は荒れていた。
引き裂かれた極彩色の帳、叩き割られた香炉、床にぶちまけられた葡萄酒とそれ以上の赤い血の海。
部屋の中央には、長椅子に上半身を預けたザイードが仰向けに倒れていた。彼がまとった絹の上衣は無残に切り裂かれ、胸から腹部にかけて、獣の爪で抉ったような致命傷が刻まれている。
血溜まりの中、ザイードの端正な顔は驚愕で引き攣っていた。双眸は見開かれたまま、一切の光を失っている。
彼の周囲には白い羽根が散らばっていた。足もとには血まみれの白鷹が落ちている。主を守ろうとして斬られたのかもしれなかった。
「……ああ」
カムランはよろめきながら後ずさった。
こんなはずではなかった。構築した盤面が、ガラガラと音を立てて崩れてゆく。
その時、金属の擦れる足音が部屋の奥から響いた。
死の質感を伴うその音に、カムランはハッとして身構えた。
ぬうっと姿を現したのはヴァイエルだった。
彼の右手には、生々しい血がこびりついた曲刀が握られている。奥にいた女たちや子供も、彼の手にかかったに違いなかった。
兜の下から覗く隻眼が、入り口で呆然と立ち尽くすカムランを射抜いた。
「おや、これはカムラン殿下。夜分に奇遇ですな」
ヴァイエルの口角が三日月のように吊り上がった。
濃密な血の匂いの中で響く声は、ひどく穏やかだった。
「なんだこれは。なぜ……こんな」
「なぜ? 大宰相閣下からの特命ですよ。ザイード殿下は、ミフラーン家の軍を密かに引き入れ皇帝陛下に弓引こうとした逆賊。ゆえに、速やかに誅殺したまで」
皇族の惨殺を、この男は「正当な誅殺」であると言い放った。躊躇いも罪悪感も存在しない。あるのは主の障害を排除したという絶対的な肯定だけだ。
カムランは奥歯を強く噛み締めた。
全身の血が沸騰するような怒りと、それを上回る恐怖がせめぎ合う。腰の剣にそろりと手を伸ばしかけたが、すぐに諦めた。
抜けない。ここで剣を抜けば、一瞬で首を飛ばされる。
ヴァイエルの構えに隙はなく、すでに致死の間合いに入っている。自分とこの男では、経験してきた死地の数が違いすぎる。
カムランは殺意を必死に封じ込めながら、こぶしを固く握りしめた。……自分も斬られるのか。こんなところで。そう思うと無念がこみ上げてくる。
ヴァイエルは切り裂かれた布を拾い、刃についた血を拭った。チャキリと冷たい音を立てながら鞘に納めた。
呆然と立ちすくむカムランの姿に満足したのか、血溜まりを踏み越えて歩き出す。すれ違いざま、ヴァイエルはカムランの耳元で低く囁いた。
「ここ最近は見事な立ち回りでしたな、殿下。アルマン殿下からザイード殿下への鞍替え。果ては密告まで。あなたの予想外の動きには、閣下も驚いておられましたぞ」
カムランの背筋に冷たいものが走った。
「なぜそれを」
「ザイード殿下の館に、閣下の『耳』がないとでもお思いで?」
カムランはようやく理解した。
自分の動きも、策も、匿名で密告したことすらも、彼らに見透かされていたことを。
「それにしても、ここまでアニサ王女に入れ込まれるとは。若さゆえの情というやつですか。ファルハからわざわざ連れて来た甲斐があったというもの」
「お前たちが砂宮を閉鎖したのは……このためか?」
「さあ?」
ヴァイエルは、問いには答えなかった。顔に浮かべた薄笑いがすべてを物語っていた。
「逆賊の末路、宮廷の皆さまにもとくとお伝えくだされ」
重い足音が外へ消え去り、再び静寂が訪れた後も、カムランは動くことができなかった。
「……やられた」
苦し紛れに出た声が空虚な部屋に溶けた。
カムランは糸の切れた人形のように、よろよろと膝をついた。
「互いの軍を衝突させ消耗させる」という策は、大宰相の凶暴な先手によって灰燼に帰した。
ザイードが死んだ今、間もなく都に到着するミフラーン軍は、指揮系統と大義名分を失い瓦解するだろう。大宰相は損害を出すことなく政敵を葬り、都の防衛のためとして無傷の私軍を我が物顔で入れるはずだ。
全身からどっと冷や汗が噴き出した。
胃の腑が裏返るような吐き気を覚えながら、カムランは砂宮にいるシャハラを思った。
大宰相は彼女を「カムランを操るための有効な人質」として認識している。ただでさえ幽閉して締め上げているのだ。解放することはあり得ない。
カムランは床に手をついたまま、ゆっくりと顔を上げた。
とにかく早くここを出なくてはいけない。留まっていてはあらぬ嫌疑をかけられる。
屋敷で起きた虐殺とザイードの死は、すぐに都中に知れ渡る。
それを知ったミフラーン家や他の貴族たちはどう動くのか。
大宰相の暴挙を知りながら、じっと耐えるのか。それとも……?
死の淵を覗き込むような戦慄を覚えながら、カムランは竦む足を叩くようにして立ち上がった。




