第49話 黒鷹の来訪と帝都防衛大隊の撤退
火の気のない黄昏の砂宮はしんとしていた。
冷たい夜気が肌を刺す中庭で、シャハラは一人天を仰いでいた。
なめらかな蒼黒の夜空には、冷酷なまでに美しい星々が瞬いている。どこからか、女のすすり泣く声が聞こえてくる。
ふと、シャハラの頭上で風切り音が鳴った。星明かりを遮るようにして、上空から何かが一直線に落ちてくる。
それは暗殺者の放った黒き矢のようにも見えた。
「……っ!」
シャハラが反射的に身を竦め、腕で顔を庇った瞬間、バサバサと力強い羽音が足元から聞こえた。
恐る恐る目を開けたシャハラの視界に飛び込んできたのは、石畳の上に降り立った一羽の気高き猛禽だった。
漆黒の羽を震わせ、金色の鋭い双眸がシャハラを見上げている。パルヴィーンだった。
「お前は……殿下の」
シャハラは周囲に人がいないことを確認すると、外套を広げてパルヴィーンを包み込み、足早に厨房に戻った。
扉を閉めると、手燭のわずかな灯りのそばでパルヴィーンの足を探る。そこには予想通り、真鍮製の小さな筒が括り付けられていた。
震える指先で筒を取り外し、封を解く。
中から現れた羊皮紙には、カムランの流麗かつ力強い筆致で、こう記されていた。
『中庭にある枯れた噴水の吐出口を引き抜け。ロープを用意し、夜に待て』
簡潔な命令文の背後に、カムランの燃えるような意志が感じられた。彼は決して自分を見捨ててはいなかった。
手紙を胸に抱きしめると、シャハラの心には小さな希望の炎が灯った。
パルヴィーンが、キイッと何かをねだるように鳴いた。
「ああ、待ってて」
シャハラは残り少なくなったギーの壺を持ってくると、手のひらに脂をたらした。
パルヴィーンは待ちわびたように、それをちろちろと舐め始めた。
翌日、シャハラは去勢兵長のバヒジや数名の宦官たちを集めた。中庭へ連れてゆき、噴水の吐出口を外してくれるよう頼んだ。
「噴水を? 一体何のために。水などとうに枯れ果てておりますぞ」
訝しむバヒジたちを、シャハラは「信じてほしい」という言葉と強い眼差しで説き伏せた。
かつては清らかな水を噴き上げていただろう白亜の噴水は、今はひび割れ、無惨に干からびている。
男たちが力を合わせ、大理石で造られた重い吐出口の装飾に手をかけ、渾身の力で引き抜く。ズズズ……と重い摩擦音が響き、石の蓋が外れた。
吐出口の下には、真っ暗な石管の穴がポッカリと口を開けていた。
ひんやりとした地下の空気が漏れ出てくる。石管は地下水路へと繋がっているようだが、人間が通り抜けるにはあまりにも細かった。地下道を通って逃げることは物理的に不可能だった。
「これでは外へ出られない……」
宦官たちが落胆のため息を漏らし、遠巻きに見ていた女たちもがっくりと項垂れる。
シャハラは静かに首を振った。
「たとえここを通り抜けられたとしても、出た先は宮城の中。手引きがなければ、すぐに見つかって捕まってしまう。たぶん殿下の意図は別のことにある」
日が暮れて、砂宮が濃密な闇に包まれると、シャハラとバヒジたちは息を潜めて噴水の傍らに座り込んだ。
風の音に混じって、私兵たちの見回りの足音が聞こえてくる。そのたびに心臓が早鐘のように鳴る。
どれほどの時間が経っただろうか。突然、地の底から反響音が響いた。石が擦れるような音。水音。そしてかすかな人の声。
シャハラは石管の穴へ駆け寄り、暗闇を覗き込んだ。
遥か下方の地下水路に、松明の赤い炎が見えた。炎に照らし出されたのは、一人の男の顔だった。カムランである。
「殿下……!」
シャハラは小さな声で呼んだ。
「アニサ王女。無事だったか」
石管を通して響く、数日ぶりに聞く声。
それを聞いた瞬間、シャハラは張り詰めていた緊張が緩み、目頭が熱くなるのを感じた。
カムランは書庫で地下水路の設計図を調べ、今は涸れてしまった古い水路を辿り、かつては砂宮の噴水へ水を吸い上げていた真下までやってきたのだった。
一歩間違えれば、地上を巡回する兵士に見つかってしまう危険な行為である。水路の石や土が崩落して生き埋めになってしまう可能性もあった。
カムランの他にも幾つかの影が見えた。男たちがカムランの傍に布袋や壺らしきものを運んでくる。
「ロープを下ろせ。荷物を引き上げるんだ。管を通るよう、小さな袋に分けてある」
カムランの指示に従い、シャハラはあらかじめ用意していたロープを石管の底へと垂らした。
すぐにロープが引きつり、確かな重量感が伝わる。息を詰め、男たちと力を合わせて引き上げると、革袋や布包みがいくつも括り付けられていた。
中には干し肉、ナッツ、麦や米などが詰められている。地下から送り込まれた貴重な糧であった。
食料を目にした女や宦官たちは、声を出さずはらはらと涙を流した。
「殿下、ありがとうございます」
シャハラは礼を述べつつ、石管の奥へ向かって切実な事情を告げた。
「もう燃料や油がないの。煮炊きするための薪が尽きてしまった。このままでは……」
灯りをともすことも、寒さを凌ぐこともできない。悲痛な訴えに、地下のカムランは力強く応じた。
「わかった。明日からは炭や油と、火を使わずとも食べられるものを持ってくる」
彼は泥や煤で汚れた顔を上げ、シャハラを真っ直ぐに見つめた。
「今、お前たちを助け出す算段を立てている。もうしばらくの辛抱だ。なんとか凌いでくれ」
「はい。信じています、殿下」
それからというもの、カムランたちは夜の帳が下りる度、地下水路から物品を搬入するようになった。
堅パンやチーズ、干し肉、ドライフルーツ、果実酒、油壷や煙の出にくい上質な炭などが少しずつ運び込まれた。
シャハラはそれらを秘密裏に分配し、息を殺して日々を過ごした。
時折、大宰相の兵士たちが壁を登って中を覗き込んできたが、シャハラたちが生きていることを知ると舌打ちして降りていった。
***
それから数日が経った頃、都に異変が起きた。
帝都を守護してきた鉄の規律を誇る二万の防衛大隊。
その精鋭があたかも夜露が朝日に溶けるように、忽然と姿を消したのだ。詰所はどこももぬけの空だった。
その報が宮廷を駆け巡った時、官僚や大貴族たちの間に走ったのは、言葉に尽くせぬ戦慄と奇妙な弛緩であった。
皇帝の命令以外では決して動かぬと言われた頑固一徹な将軍バルトが、突如として全軍を率い、郊外へ撤退したという。
彼らは駐屯地に陣を敷いたまま固く門を閉ざし、一切の軍事活動を停止して沈黙を守っている。早速にも使者が遣わされたが、門前払いを食らってしまいバルトに会うことはできなかった。
最大の武力を失った都は、さながら牙を抜かれた巨獣のように無防備な状態に陥った。市民はこれから一体何が起きるのかと震えあがった。
不気味な静寂が支配する夜、カムランは、ザイードの居館へ馬を走らせた。
「待ちわびていたよ」
長椅子に身を横たえたザイードは、しどけない寝間着姿のまま、黄金の杯を指先で弄んでいた。
カムランは、被っていた外套のフードを外した。顔には、緊張と抑えきれない歓喜が巧みに貼り付けられている。
「兄上。先日のお約束通り、事態を動かしました」
カムランは声を震わせ、絨毯の上に膝をついて頭を垂れた。
「都中がバルトの撤退の噂で持ちきりだ。大宰相も、あの融通の利かぬ堅物がいかなる陰謀を企てているのかと眉をひそめていた。お前が、本当にバルトを動かしたというのか?」
「はい」
カムランは顔を上げ、ザイードの目を見つめた。
「兄上もご存知の通り、バルト将軍の行動原理は、皇帝陛下への盲目的とも言える忠誠心です。そこが最も御しやすい点でもあり……私は陛下の筆跡を模し、極秘裏に勅書を偽造してバルトを訪ねたのです」
「勅書だと?」
「ええ。文面はこうです。『大宰相は余を暗殺し、その罪を防衛大隊に着せて軍を掌握せんとしている。真に余を救わんとするならば、大宰相に兵を奪われる前に都を離れ、全軍の独立を保って時を待て』と」
ザイードは息を呑んだ。カムランの語る悪魔的な発想に戦慄を覚えながら、同時に著しい興奮に襲われた。
「それで?」
「バルトは陛下が軟禁されていることを知っており、宮城へ攻め込めば皇帝の命はないと考えていました。そこへ届いた陛下直筆の勅書です。大宰相に軍部を掌握されることを恐れたバルトは、自らの権限で二万の兵に撤退命令を下して出奔しました」
「はっ……はははは!」
ザイードの口から、堪えきれない愉悦が漏れた。
彼は、美しい髪を揺らしながら笑った。
「傑作だ。なんという滑稽な話だ。忠義に凝り固まった石頭が一枚の偽手紙に踊らされ、都に穴をあけて逃げ出したというのか」
ザイードにとって、忠義心ほど嘲笑すべき安っぽい感情はなかった。それゆえに、バルトが自らの美徳によって自滅した話は彼自身を大いに納得させたのである。
「兄上。笑っている場合ではありません。これは、天が兄上に与え給うた唯一無二の好機です」
「わかっているとも」
ザイードは笑いを収め、獲物を見定めるように目を細めた。
「大宰相が皇帝を軟禁しているのは本当だよ。お前は嘘を言ったわけではない。結果として、バルトの軍は都を出た。大宰相が手元に置いているのは、ヴァイエルが率いる僅かな私兵部隊のみだ」
「はい。兄上が呼んだミフラーン家の精鋭たち……彼らが来て宮城を制圧してしまえば、次の皇帝の座は間違いなく兄上のもの」
皇帝の座。その至高の果実の名を耳にした瞬間、ザイードの瞳に欲望の炎が燃え上がった。
「大宰相にもアルマンの動向は伝わっている。上洛が迫る今、私が軍を呼ぶのを阻むことはできまい」
ザイードは残酷に唇を歪めた。
「軍が都に入った瞬間、標的を大宰相に切り替えよう。宮城を制圧し、あの老いぼれを引きずり下ろしてやる」
カムランは真剣な顔でザイードを見つめた。
「兄上、約束です。アニサ王女を解放してください」
「わかっているとも。近いうちに掛け合ってやろう」
上機嫌な答えに、カムランは安堵の息を吐いた。
「これで安心しました。すべては兄上、ザイード一世陛下のために……」
カムランは再び深く頭を垂れた。
屋敷を出た時、夜風は一段と冷たさを増していた。
外套のフードを再び被り、馬に跨ったカムランの眼差しは、先ほどまでのそれとは違う仄暗い深淵を湛えていた。
まだ盤面が完成したわけではない。三つ巴の罠を完成させるためには、もう一人の巨頭を動かさねばならなかった。
カムランは、すぐに大宰相の執務室へ通じる連絡網に手を伸ばした。大宰相の前に直接姿を現すような愚は犯さない。数時間後、大宰相の元に出所不明ながらも、極めて具体的な一通の書が届けられた。
そこには、第二皇子ザイードがミフラーン家の精鋭を呼び寄せていること。その真の狙いはアルマン迎撃ではなく、宮城を急襲して大宰相派を根絶やしにする計画であることが詳細に記されていた。
大宰相とて、百戦錬磨の政治家である。
最初は流言飛語の類と疑うかもしれない。しかし、バルトの軍が消えたこの状況下で、ザイードが軍を動かしているとなれば、疑念は瞬く間に確信へ変わるはずだ。
ザイードはミフラーン家の軍兵が到着し次第、宮城へ進軍する。大宰相は「ザイードの謀反から皇帝を守る」として、ヴァイエル将軍および私兵を動かして迎撃するだろう。双方ともに、己が正義を掲げて激突するのだ。
戦火が都や宮城に及べば犠牲者が増える。
できれば、市街ではなく郊外にて戦わせたい。
カムランはどうすれば彼らを郊外に誘い出せるか、冷たい思考を巡らせるのだった。




