第48話 軍の二重の引き剥がし
黄昏の砂宮の封鎖から三日が経過した。
当初は短時間で封鎖が解かれるといった噂も流れたが、解放される気配はない。
カムランは居室で、暗い水底に沈んだかのような静寂の中にいた。己の無力さ、シャハラを残してこなければならなかった屈辱が、今さらのように彼を苛んでいた。
別れ際に見たシャハラの悲痛な顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
「絶対に助ける」
そう叫んだ己の声が、虚しくこだまする。
助ける……?
一体どうやって?
落ち着け、とカムランは自分に言い聞かせる。
無軌道な怒りに任せて剣を抜くのは容易いが、そんなことをすれば大宰相に排除の口実を与えるだけだ。
シャハラを救うためには、別の方法を考えるしかない。
カムランが次の打ち手を思案していると、扉が叩かれ、従者がビジャンの来訪を告げた。
ほどなくして、腕に鷹を据えた男が部屋に入ってきた。ビジャンは礼を尽くし、左腕を少し持ち上げてみせた。
「殿下。スハイルがまいりました」
ビジャンの分厚い革の手袋の上に止まっていたのは、一羽の美しい鷹だった。
第一皇子アルマンの伝書鷹、スハイルである。
パルヴィーンの姉であるスハイルは、黒一色の妹とは違い、頭と腹が真っ白で尾羽は灰色と黒が複雑に混ざり合っている。知性を感じさせる金の瞳が、静かにカムランを見つめていた。
「よく来たな、スハイル」
カムランが近づくと、スハイルは喉の奥で小さく鳴き、首をすり寄せるような仕草を見せた。ビジャンはスハイルの足に結び付けられていた真鍮の筒を差し出した。
カムランは手早く筒の封を解き、中から丸められた薄い布を取り出した。
布は兄アルマンからの暗号文である。カムランは蝋燭の火を近づけ、複雑な記号を瞬時に解読していく。内容を読み進めるにつれ、彼の眉根がかすかに寄った。
『近日中に発ち、ムスハ渓谷に向かう。帝都の動向を注視せよ。同封した文書をうまく使え』
「兄上が遠征に出た」
カムランは独り言のように呟いた。
スハイルがヤジデから都まで飛んでくる日数を逆算すれば、アルマンの軍はすでに行軍を始めている。
兄が動いたからにはもう後戻りはできない。水面下で燻っていた闘争は、いずれ物理的な衝突に発展する。
カムランはペンを執り、羊皮紙に返信を書き始めた。
「殿下、今度はパルヴィーンを飛ばしますか」
ビジャンが尋ねてきた。
通常、長距離の伝書は鳥への負担を避けるため、行きと帰りで別の鳥を使うことが多い。
「いや、スハイルを戻してくれ。パルヴィーンはしばらくこちらに置いておく」
「承知いたしました。では、スハイルを少し休ませてから飛ばします」
ビジャンは窓の近くに設えられた止まり木にスハイルを移した。
直後、バサバサと激しい羽音を立てて、黒い影が滑り込んできた。パルヴィーンだった。姉が来たことを察し、追いかけてきたらしい。
パルヴィーンはスハイルの隣に降り立つと、しきりに首を擦り付け、細い声で鳴きながらじゃれつき始めた。
これは通常ではありえない不思議な姉妹だった。
鷹は繁殖期に複数の卵を産むが、無事に育って巣立つのは大抵一羽である。なぜなら最初に孵化した雛が、後から孵化した雛を攻撃して殺してしまうからだ。
きょうだい殺しは過酷な自然界を生き抜くための本能であり、鷹匠も強い鷹を得るため、この残酷な自然淘汰には一切関与しない。
ところが、どういうわけかスハイルは後から生まれたパルヴィーンを攻撃しなかった。
それどころか、親鳥から与えられた餌を口移しで分け与えることすらあったという。その結果、一つの巣に数日違いで生まれた二羽が育つという稀有な奇跡が起きたのだった。
パルヴィーンは獰猛で、自分より大きな鷹や鷲にも平気で襲いかかるが、姉には生かしてもらった恩義を感じているのか実におとなしい。今もおっとりと構えるスハイルの気を引こうと羽をばたつかせ、飛び跳ねて騒いでいる。
スハイルは妹を鬱陶しがることもなく、時々つついたり甘噛みしたりして遊んでやっていた。
「スハイルの前では子供みたいだな。狩りの名手も形無しだ」
カムランは手を止めて苦笑した。
「鷹舎にいる時もくっついて離れませんよ。スハイルが旅立つと寂しそうにしています」
ビジャンが相槌を打つ。
カムランは戯れる姉妹鷹に、自分とアルマンを重ねずにはいられなかった。
その夜遅く、都が深い眠りにつく頃。
カムランは数人の護衛を連れ、密かに宮城を抜け出した。
月明かりを避け、裏路地を縫うようにして馬を走らせる。
向かった先は、都にある第二皇子ザイードの居館だった。
ザイードは、病に伏せった皇帝に代わって権勢を振るう大宰相に巧みに擦り寄り、宮廷内で発言力を強めている。
裏門から屋敷へ入り、案内された奥の間には、強い香が焚きしめられていた。
幾重にも吊るされた薄絹の帳の奥からザイードが現れた。彼は葡萄酒の入った黄金の杯を揺らし、口元に柔和な笑みを浮かべた。
「誰かと思えば、我が弟カムランではないか。何用だい?」
カムランは外套のフードを外し、深く頭を下げた。
怯えきった様子で、ぶるりと肩を震わせた。
「……兄上。夜分遅くに無作法をお許しください。急ぎお伝えしたいことがありまして」
「ほう?」
ザイードが興味深そうに片眉を上げた。
カムランは一枚の紙片を差し出した。
「アルマンが上洛します」
「……」
ザイードは無言で羊皮紙を開き、中身を読んだ。
紙には「都から輜重部隊が到着次第、ムスハを離れ上洛する。内側から関所の門を開くべく手引きするように」といった細かい指示がびっしりと書かれている。
「これは本物かい?」
ザイードは念のため尋ねた。
「はい、アルマンが書いたもので間違いありません」
カムランは確信を持って答えた。
実際、鑑定士を呼ばれて筆跡鑑定をされても構わない。これはアルマン本人が書いたものだ。
もっとも、上洛するよう兄に策を授けたのはカムランであり、この指示書は敵を釣るために意図的に同封させたものだったが。
「おかしいね。ムスハ遠征が成功すれば皇太子の地位が約束されているのに」
ザイードは訝しみつつも、その声は若干の焦りを帯びた。
「アルマンは、前々から大宰相閣下と兄上が取り仕切る朝廷に強い不満と怒りを抱いていました。中央から輜重部隊が到着し次第……謀反を起こすつもりです」
「なんだって?」
ザイードの手に握られた黄金の杯が揺れた。
「アルマンと五万の軍勢が、大宰相閣下と……ザイード兄上を討つべく都へ上ってきます」
ザイードは杯を置き、蛇のような目でカムランをねめつけた。
「これを持ってきたということは、お前は私の側につくのだね?」
カムランは目を伏せ、迷うような素振りを見せたが、やがてはっきりと頷いた。
「はい。アルマンの動きは手紙のやり取りも含め、すべて包み隠さず兄上にお伝えします」
「なぜ?」
ザイードの追及に、カムランは顔を曇らせた。
「アニサ王女が……」
「王女がどうしたの」
「先日、疫病が出たとかで黄昏の砂宮が封鎖されてしまいました。物資も搬入されず、このままでは王女の身が危ない。いずれは病気になるか、飢え死にしてしまいます。どうかアニサ王女を助けてください。砂宮から出してやって欲しいのです。封鎖は大宰相の指示。もう兄上におすがりする他なく……!」
カムランはアニサ王女への強い執着と盲目的な愛情を、ザイードの前にさらけ出した。
ザイードは、カムランの必死な顔を値踏みするように眺めた。彼にとっては、砂宮が封鎖されようが、中の人間が皆殺しになろうがどうでもいいことだったが……。
「大宰相らしいね。虫も殺さぬ顔でやる残酷さだ。門を閉ざし、中の者たちが死に絶えるのを待つ。配下を損耗せずに済み、抵抗されることもない。実に合理的な消毒方法だ」
ザイードは平然と言ってのけた。
「兄上、どうか!」
カムランはザイードの足もとに這い寄った。
「ふふふ!」
ザイードは声をあげて笑った。
自尊心を大いにくすぐられる。アルマンの子飼いが女一人のために、自分の足元に這いつくばっているのだ。
「女一人のためにアルマンを裏切る、か。お前も大概だね」
ザイードは呆れの中に侮蔑を滲ませた。なんと愚かな弟だ、と言いたげである。
「兄上も、至急自軍を固められますよう。アルマンが来たら本格的な戦いになります。最低でも数万の兵がいなければ太刀打ちできないかと」
カムランが煽るように進言すると、ザイードは苦い顔で遮った。まだ重大な懸念事項が残っている。
「お前は肝心なことを忘れているね」
「と言いますと?」
「バルトだ」
ザイードは忌々しげに吐き捨てた。
「ここにはバルト将軍が率いる帝都防衛大隊が控えている。あれが睨みを利かせている状況で、私の軍を集結させれば我々が謀反人として討伐されかねない。バルトはどうする気だい?」
カムランは、その問いこそを待っていた。
やっと来たかと心中でほくそ笑む。
「ご安心ください。バルト将軍と防衛大隊は、私が都から引き剥がします。兄上は彼らが都を離れ、防備が手薄になった隙を突いて宮城の制圧を」
「お前がバルトを動かすというの?」
「はい。兄上とアニサ王女を助けるためならば、いかなる手段を用いても」
「ふむ……」
ザイードはカムランを眺め下ろしつつ、冷酷な算盤を弾いた。
カムランがバルト将軍を追い出す策に失敗すれば、「謀反人に協力した裏切り者」として切り捨て、大宰相に差し出せばいい。
もし成功してバルトが都を離れたなら、宮城は丸裸となる。その隙に自軍で都を制圧し、大宰相を捕らえて粛清すれば玉座が手に入る。どちらに転んでも悪くない。
「いいだろう。お前の覚悟、信じてみよう」
ザイードは蠱惑的な笑みを漏らした。
「ミフラーンの兵を呼ぼう」
ザイードに最も忠実なミフラーン家の軍兵が来る。
カムランは不安を滲ませつつ、言葉を濁して尋ねた。
「ですが兄上。ミフラーン家の精鋭を呼ぶにしても、かの家の領地は遥か遠方です。早馬を飛ばしても、片道十日はかかりましょう。果たして間に合うのでしょうか」
カムランの問いに、ザイードはふんと鼻を鳴らした。
「心配はいらないよ。我が精鋭たちは遠方にいるわけではない。五日もあれば連絡がつく」
「五日で届くところに……? 一体どちらに?」
「それはお前の知ったことではない」
ザイードは、それ以上は語らなかった。
カムランは心中で冷たい歓喜に震えた。
物理的な早馬の限界を超えて、素早く情報を行き来させる手段。ザイードは「黒の回廊」を使うつもりだ。ギダ高地に潜ませたミフラーン兵が南下してくる。
「お前がバルトと帝都防衛大隊を都から追い出せたあかつきには、大宰相に願い出て、砂宮からアニサ王女を出してやろう」
「本当ですか。ありがとうございます」
安堵の表情を浮かべるカムランだったが、次の瞬間、ザイードの手が伸びてきた。
顎を掴み上げると一気に引き寄せる。
「カムラン。賢いお前はわかっているだろうけど、少しでもおかしな真似をしたらどうなるか」
至近距離で響くザイードの声は、低く粘ついていた。
「私を裏切ったら王女の命はないよ。これ以上ないほどむごたらしい方法で処刑するからね」
駒を有効に使うには、愛する者を人質に取る。
それこそが他者を支配するための、最も安上がりで確実な方法だとザイードは信じて疑わなかった。
カムランは恐怖に目を見開き、顎を掴まれたままガタガタと震えた。
「わ、わかっています……」
「よろしい」
ザイードは満足そうに手を離した。
扉の方を向くと、今度は従僕を呼ぶために手を叩いた。
カムランはひとしきり歓待された後、ザイードの屋敷を辞した。裏口から出て冷たい夜気に晒された瞬間、カムランの顔から恭順と追従の仮面が剥がれ落ちた。
再びフードを深く被ると、馬の腹を浅く蹴って飛び出した。彼の姿は、たちまち帝都の闇の中へ溶け込んでいった。
まだやるべきことが残っている。




