第47話 砂宮の閉鎖と兵糧攻め
カムランが暗号文を解いてから数日後。
その日、黄昏の砂宮に、凍てつくような死の匂いが流れ込んできた。
「査察である」
氷のような一言と共に、外廷と内廷を隔てる黒檀の正門が押し開かれた。
現れたのは、皇帝の護衛たる近衛兵ではない。
大宰相メリクの鷲の紋章を刻んだ漆黒の甲冑をまとう私兵部隊であった。彼らはどういうわけか、本宮を素通りし、真っ直ぐ黄昏の砂宮へ入ってきた。
砂宮の荒れた中庭を軍靴が踏み鳴らす。女たちは怯えた小鳥のように回廊の陰へ身を潜めた。
兵士たちの先頭を歩くのは、長年大宰相に仕える懐刀にして、帝国の影にうごめく男だった。
公式の役職についているわけではないが、畏怖と嫌悪から「隻眼の将軍」と呼ばれている。顔の左半分を覆う黒革の眼帯が、その表情から一切の人間らしさを奪い去っている。
その時、シャハラは厨房の裏手の人目につかない場所で、布を敷いて麦を広げていた。
先日カムランが極秘に持ち込んだ兵糧である。湿気って熱を持っている麦も、しっかり乾燥させれば問題なく食べられる。
不意に、軍靴の音が近づいてきた。
鉄と革、そしてかすかな血の匂い。シャハラは伏せていた顔を上げ、回廊を歩く兵士たちの方を見た。
先頭の男の顔を見た瞬間、心臓が跳ね上がった。
特徴的な眼帯。土気色の生気のない右目。残忍な薄い唇。シャハラの内に凄惨な記憶が蘇る。
無慈悲に振り下ろされた白銀の軌跡。石畳に転がり落ちた師匠の首。血濡れた長剣を無造作に振り払いながら、男は片目でシャハラを冷然と見下ろした。
シャハラは、心中でその男の名を叫んだ。
――隻眼の将軍ヴァイエル。
シャハラは身を翻すと、厨房の中へ駆けこんだ。
怒りと焦燥で頭の中が煮えたぎっている。相手が武装し、兵士を引き連れているという事実も忘れた。シャハラは形見の包丁を握りしめた。研ぎ澄まされた刃が鈍い光を放つ。
許さない。あの男だけは……許せない。
シャハラは包丁を持って外へ飛び出そうとした。
「待て」
突如、背後から何者かがシャハラの右腕を掴んだ。
有無を言わせぬ強い力だった。シャハラの耳元に、荒い吐息が吹きかかる。
「やめろ、無理だ」
カムランだった。兵糧の件で、ちょうど砂宮の裏口から密かに入ってきていたのだ。
いち早く異変に気付いた彼は、シャハラの身体ごと建物の陰へ引きずり込んだ。手首を捻り上げて包丁を奪い、厨房の中に投げ捨てた。
「離して!」
シャハラは身を捩り、血を吐くような声で呻いた。
「あいつが……師匠を……ッ!」
「よく見ろ」
カムランは、シャハラを背後から拘束したまま低く囁いた。
「あいつの背後には三十人以上の武装兵がいる。無闇に飛び出したところで刃は届かない。その前に無数の槍がお前を貫く。お前は犬死にするためにここへ来たのか」
カムランの声は、復讐の熱病に冒されたシャハラに冷水を浴びせた。
確かにカムランの言う通りだった。
ここで特攻したところでヴァイエルは倒せない。
刺し違えることすらできない。そのことを理解すると、シャハラの身体から力が抜けた。震える右手を、カムランがしっかりと握りしめた。
「……耐えろ」
声と共に、彼の心臓の鼓動が伝わってきた。
カムランはシャハラを庇うようにして、そのまま裏へ連れていこうとした。
しかし、ヴァイエルの鋭い視線はすでに二人を捉えていた。彼は歩みを止めると、ガラス玉のような右目で二人を見下ろした。
「おや、これはアニサ王女。こんな物陰で男と逢引きとは、帝国で暮らすうちに随分と擦れてしまわれたようだ。高貴な王女とは思えない振る舞いだな」
シャハラはヴァイエルをきっと睨んだ。
ヴァイエルはくつくつと笑いながら、今度はカムランの方を見た。
「どこの馬の骨かと思えば、皇子殿下ではありませんか。位階は存じませんが」
ヴァイエルの声に、皇族に対する敬意は微塵も含まれていなかった。端から、皇位継承に絡まない皇子は眼中にない。
「カムランだ。お前こそ、ここに何用だ」
「査察ですよ。皇帝陛下が熱病に倒れられたのはご存知でしょう。病気の出どころは後宮。ここで疫病が発生したとの報告を受けましてな。大宰相閣下は事態を重く見られ、黄昏の砂宮を直ちに閉鎖するよう命じられました」
「そんな……」
シャハラは絶句した。砂宮に疫病など発生していない。
これはまったくのデタラメだ。
ヴァイエルは淡々と続けた。
「殿下は皇帝陛下の血を引く尊いご身分。このような不浄の地に長居されては一大事。すぐにここを出て、本宮の安全な区画へお移りください」
口調は慇懃ながら、実質的な強制退去の命令だった。
カムランは即座に言った。
「ならば、アニサ王女も連れて行く」
ヴァイエルは薄気味悪い笑みを浮かべて首を横に振った。
「なりません。アニサ王女はすでに疫病に感染している可能性があります。一人残らずここに留め置き、経過を観察しなくては」
「ふざけるな! 置いていけるはずが」
カムランが声を荒らげた瞬間、背後の兵たちが一斉に槍を構え、切っ先を突きつけた。圧倒的な暴力の壁。ここで逆らえば、皇子であってもどうなるかわからない。
「殿下は混乱されているようだ。外へ案内して差し上げろ」
ヴァイエルの意を受けた兵士たちが、カムランの腕を掴み、強引に立たせる。
「離せ。触るな!」
カムランは身を捩り、兵士たちを振り払おうとするが、男たちの力には抗えなかった。
「殿下!」
シャハラがたまらず手を伸ばした。
しかし、彼に触れる前に無情な槍の柄が彼女の胸を打ち据えた。シャハラは後方へ突き飛ばされた。
地面に転がったシャハラと、兵士たちに連れてゆかれるカムランの視線が交差した。
カムランは振り向きざまに叫んだ。
「絶対に助ける!」
シャハラは痛みを堪えながら、その声を聞いた。
男たちが去ると、ジリが駆け寄ってきた。
物陰から様子を窺っていたのだ。
「アニサ王女、大丈夫?」
シャハラは胸を押さえながらもなんとか立ち上がった。ジリが横に来て脇を支えた。
カムランとヴァイエルたちが、砂宮の門の向こうに消えた。彼らが出た直後、門は地響きを立てながら閉じられる。
続いて耳障りな金属音が響いた。外側から何重にも太い鎖が巻き付けられ、錠が下ろされる音だった。さらに、門の隙間に木材や土嚢が差し込まれる。
シャハラはよろよろと門の前まで行き、わずかな隙間すら潰された扉を茫然と見上げた。ジリが扉を何度も叩いた。
「なぜ殿下だけ外に出されたの。何が起きたの。私たち……どうなるの?」
他の女たちもぞろぞろとやってきて、不安そうに顔を見合わせた。
「ここに……閉じ込められたみたい」
シャハラが呟くと、女たちの顔は蒼白になった。
陽が落ちると共に、砂宮の内部には息が詰まるような重苦しい空気が満ち始めた。
誰もが口を閉ざし、部屋や廊下の隅で膝を抱えて震えていた。普段なら火が入る回廊も暗いままで、闇がねっとりと壁を這い上がっていく。
砂宮は疫病が出たことにされ、外界から完全隔離されてしまった。正門も裏口も閉じられ、物資の搬入も途絶えた。人も物も一切入ってこなくなった。
女たちだけでなく、砂宮を担当する去勢兵や宦官も閉じ込められてしまった。
外からは、私兵たちが巡回する規則正しい足音と金属の擦れる音が絶え間なく聞こえた。その冷徹な音が、ここが包囲されている事実を容赦なく突きつけてくる。
深夜、宦官の一人が闇に乗じて高い塀を乗り越えようとした。
しかし、塀の上に登った直後、風切り音と共に「ヒッ」という短い悲鳴が上がり、ドサリと何かが落ちる音がした。
それきり静寂が戻った。宦官は矢に射られて落ちたと思われた。
逃げようとすれば死ぬ。
中に留まったところで、食べるものが尽きれば干上がって死ぬ。
砂宮の女たちは逃げ場のない檻に閉じ込められた現実を悟ると、床に突っ伏し、髪を掻き毟って泣き叫んだ。
女たちの泣き声が響く中、シャハラは一人、厨房の奥で食料の確認を行った。
宮に残された者は三十名前後。その大半は老いており、持病を抱える者も多かった。
元より砂宮は最下層の監獄、墓場の一歩手前のようなところである。金がなければ医者も呼べないため、弱った者から死んでいく。逆に言えば、長生きできないからこそ、この人数で細々と配給を分け合い、なんとか食いつなげている面もあった。
シャハラが棚を調べると、麦や豆、干し肉などがあり、しばらくは食いつなげそうだった。
カムランが持ってきた兵糧もある。中に井戸があるため、飲み水に困ることはない。
それでも、すぐに別の問題に直面した。
燃料の薪がわずかしか残っていない。燃料が尽きれば、枯れ木や建物の廃材を拾い集めて燃やすしかない。
さらに完全封鎖されたことで、日々のゴミや汚物は搬出されなくなり、宮に溜まる一方だった。不衛生な状態が続けば……いずれは本当の疫病が発生してしまう。
食糧が尽きて餓死するか、病が蔓延するのが先か。
これから一体どうなるのか。このまま見殺しにされるのか。
不安に胸がギュッと締め付けられる。だが、希望は捨てない。彼女の耳の奥には、カムランが残した言葉がこびりついていた。
「絶対に助ける」と、彼は言い切ったのだ。カムランを信じるしかない。
シャハラは両頬を強く叩き、気合いを入れた。
井戸から冷たい水を汲み上げると、残り少ない薪を細かく割る。
食材が少しでも長持ちするよう工夫しながら、涙に暮れる女たちのために、滋味深い豆のスープを作り始めるのだった。




