第46話 師匠のレシピの謎と三種の陣地のシャトランジ・キッベ<下>
「見事だ。一つの兵站基地を築くのではなく、十三箇所に小規模な釜を分散させていたのだな」
賞賛は大宰相に向けてのものか、それとも見破ったダーリシュに向けてのものか。
カムランの推論はそこで終わらなかった。
彼は打たれた十三の赤い点から、帝都に向けて等高線をなぞるように線を引いた。
クーデターの刻が来れば、十三の釜から一斉に私兵と物資を吐き出し、帝都を包囲する完璧な網となる。
しかし、それらの点から伸びる進軍ルートは、地形の制約によって次第に収束していく。山脈と大河に阻まれた地形上、十三の経路が一箇所だけ重なり合う場所があった。
「……あった」
カムランの指先が、地図上の名もなき渓谷の入り口を強く叩いた。
「すべての釜からの流れが交わる場所。大宰相の軍事網における唯一にして最大の弱点……補給の集積所となる隠し街道だ」
彼は座標を写し取った地図と羊皮紙を乱暴に引っ掴むと、夜明けの冷気が漂う廊下へ駆け出した。
翌日、カムランは約束通りに砂宮の厨房に姿を現した。
徹夜で知恵を絞った顔は疲労の色が濃かったが、瞳には歓喜の光が燃え盛っていた。それだけでシャハラは彼の為したことを理解した。
「……解けたのね」
「ああ。地図とも照合できた。おそらく間違ってはいない」
カムランはシャハラが淹れた地封茶を一口飲み、羊皮紙を卓に広げた。
中央に書かれたレシピの数字に、膨大な倍率が隠されていたこと、それが大宰相の恐るべき横領の規模であることを説明した。
「大宰相は長年、数字通りに国庫を食い物にしながら、私兵という巨大な牙を完成させた。そして二十年前、ダーリシュは厨房の異変から、この不正や謀略に気づいてしまった。今のお前のように」
シャハラは思わず胸のあたりを押さえた。不正を知ってしまった時、師匠は何を思ったのだろうかと。
「本来あるべき最高級の塩がどこへ消えたのか。なぜ南方の糖蜜の風味が薄まり、水増しされているのか。ダーリシュは消えた食材と質の低下から、物資が別の場所へ流れていることを確信した。そして大宰相の部屋か金庫から、この計画の根幹となる証拠を見つけて書き写したんだろう」
カムランは、羊皮紙の余白にびっしりと書かれた数字を指差した。
「この意味不明なスパイスの羅列は、重さや配合比率ではない。特定のスパイスの組み合わせだけを抜き出すと、帝都を基点とした軍事的な『作戦区画番号』と『詳細位置コード』になる。地図と照らし合わせて点と点を結ぶと、帝都を取り囲むように点在する十三の窪地……不正備蓄基地の場所が浮かび上がった」
「これが十三の釜か」
「大宰相は、十三の小規模な隠れ家に物資を分散させることで監視の目を欺いていたのだ。正式な査察が入ってもトカゲの尻尾切りで済むようにな。そしてクーデターの時が来れば、この十三の釜から一斉に備蓄を吐き出し、二万の私兵を支える。現在も備蓄基地としては機能しているだろう」
カムランは、成果を誇るかのように笑みを浮かべた。
「お前とダーリシュのおかげで、奴の弱点を掴んだぞ」
「じゃあ、その十三の釜を攻めるの?」
シャハラの素朴な問いに、カムランの笑みが消えた。
突きつけられた現実的な次のステップに、彼の脳は熱を失い始めた。
「十三の釜はそれぞれが天然の要害に隠されている。これらを同時に叩く、あるいは一つずつ落としていくだけでも、そこそこの兵力が要る」
カムランは自らのこめかみを強く指で押した。
「十三の釜から、帝都近郊に潜む私兵へ物資を届けるためには、どうしても山脈と大河の制約を受ける。進軍ルートを等高線に沿ってなぞっていくと……すべてのルートが必然的に一つの渓谷へと絞り込まれる。名もなき渓谷の入り口、補給の集積所となる隠し街道だ」
「合流点……」
「十三の釜すべてを攻める必要はない。たった一箇所の要衝を封鎖してしまえば、すべての釜からの流れが止まる。補給路を断たれた二万の私兵は、戦わずして自滅する。完璧な戦略だ。これ以上ない絶対的な一手だ」
そこでカムランは言葉を切り、大きく肩を落とした。
瞳に灯っていた歓喜の炎が、すうっと引いていく。
戦略が完璧であればあるほど、持たざる者の立場が身に染みる。
「……参ったな。たった一箇所の合流点を塞ぐための兵すら今の私にはない」
陰謀を暴き出し、大宰相の喉元に突き立てる必殺の刃を見極めながら、それを握るための兵力が存在しない。
カムランにとって、それは万能感の絶頂から無力感のどん底へと叩き落とされるような、何よりも歯痒い現実だった。兵がなくては、どんな奇策も机上の空論、子供の夢想に過ぎない。
カムランはふて腐れたように卓に両肘を突き、前髪を乱暴に掻き上げてため息を吐いた。
そんな彼に対し、シャハラは穏やかな口調で言った。
「大宰相はなぜ、そこまでしてこの計画に固執するの? 玉座を奪いたいなら、二十年もかけて横領して備蓄しなくても……」
「普通ならそう思うが」
カムランは虚空を見つめ、大宰相の長年の足跡をなぞるように語った。
「この二十年、簒奪したくともできずにいたと見るべきだろう。皇帝は壮健であり、軍部は強大な力を持ち、政敵も多かった。奴がファルハに軍事中継基地を作ろうとしたのも、正規軍の目の届かない場所で力を養うためだ」
「そのためにファルハを攻めた……?」
「皇帝が病気になるのを待ってな。おそらく、大宰相は武力で玉座を簒奪するような真似はしない。表向きは国と帝室の守護者であり続ける。邪魔なアルマンとその軍を排除し、皇帝を保護という名目で幽閉し、傀儡の皇子を据えて実権を握る。ほどよいところで新皇帝を始末し、自らが新たな王朝の開祖として君臨する……というところか。二十年かけてせっせと盤面を整えたわけだ」
「気の遠くなる話ね……」
シャハラはしんみりと呟いた。
「ああ。そして、どこにでもあるありふれた話でもある。相手の手札が見えているのなら、あとは逆手に取って盤面をひっくり返すだけなんだが」
悔しがるカムランを、シャハラは少しの間眺めていた。
それから分厚い布巾をかけた大皿を持ってくると、彼の前に置いた。
「はい、昨日の約束。とりあえずこれを食べて」
シャハラが布巾を取ると、熱気が一気に解放され、スパイスの芳醇な香りが漂った。
カムランの目を奪ったのは、その視覚的な美しさだった。
大皿には四角形の大きなキッベ・ビ・サニエが置かれ、さらに正方形の八×八、ひと口サイズのマス目が包丁で刻まれていた。キッベは列ごとに、三つの鮮やかな色で染め分けられていた。
「……これはもしかして盤上遊戯か」
「『盤上遊戯の実り駒』よ。最近は地図ばかり見ているあなたの頭の中を、少しでも整理できればと思って」
シャハラはそれぞれの陣地を説明した。
大宰相派を模した漆黒の陣地は黒クミン(ニゲラ)と柘榴の果汁で鉄の重圧感を醸し出し、第二皇子派の黄色はターメリックと黄人参で派手な金満家を象徴させ、そしてカムランたち第三勢力は緑で、ほうれん草とミント、コリアンダーで慎ましくも瑞々しい力を表現していた。
各マスには駒に見立てたデーツ(ナツメヤシ)や半割りの胡桃、グリーンオリーブが鎮座していた。
「さあ、冷めないうちに」
シャハラが小皿に取り分けると、カムランは羊皮紙を片付け、熱々のキッベを頬張った。
口に入れた瞬間、ブルグルの生地から繊細な音が鳴った。
サクッとした歯触りの後に、穀物特有の滋味深さがじんわりと広がる。香ばしい皮目から、中に閉じ込められていた肉汁が溢れ出す。中身の挽肉は臭みが全くなく、炒めた玉ねぎの甘みと香ばしくローストされた松の実が、絶妙なアクセントになっていた。
デーツが乗った黒のキッベを噛み締めると、ザクロの濃縮果汁が挽肉の脂を鋭く断ち切る。
胡桃が乗った黄色のキッベからは、人参の素朴な甘みが広がる。
グリーンオリーブが乗った緑のキッベは、フィリングにも刻んだオリーブが入っており、噛むたびに弾ける食感が小気味よかった。
「これは楽しいな。どの陣地も味わい深い」
カムランは齧りつきながら感嘆した。
キッベを一通り味わった後は、添えられたパセリとトマトのサラダに手を伸ばした。
細かく刻まれたたっぷりのパセリとミント、それにトマトの酸味が、レモンとオリーブオイルのシンプルなドレッシングでまとめ上げられていた。青々とした香りが口内をさっぱりと洗い流し、次の一口へと食欲を掻き立てた。
さらに、深皿に注がれたレンズ豆のスープも啜った。
クミンが香るスープはとろりとした舌触りで、緊張と疲労で冷えきった体内に優しく染みていった。
豆の素朴な甘さが胃の腑をじんわりと温める。サラダの清涼感とスープの優しい風風味、キッベの力強い味わいをより一層際立たせている。
スープを飲み干し、すっかり腹が膨れた頃には、カムランの思考はこれまでにないほど澄み渡っていた。
彼は地封茶をゆっくり飲むと、半分ほどキッベが残った大皿をじっと見つめた。
三つ巴の勢力図を示すシャトランジの盤面。
カムランはおもむろに手を伸ばし、黄色のキッベを摘み上げた。
盤面の中央へ滑らせるように移動させた。
「ザイード軍を、ギダ高地から都におびき寄せる」
呟きながら、今度は緑色のキッベを上へ押し上げ、黒のキッベのすぐ隣に配置した。
「逆に、都の主軍を出して十三の釜の合流地点を押さえる。それから各個撃破で物資を奪い取る。主軍を外に出すには大義名分が必要だが……」
盤上の駒たちが、カムランの脳内でぐるぐると回った。
一手、二手、三手……どんどんと敵を追い詰め、いずれは王手をかける。
「敵の力を利用して敵を討つ。これならいけるか」
カムランは口角を吊り上げると、黒のキッベを摘み上げた。勝機を願うように、豪快に口に放り込んだ。
もぐもぐと咀嚼しながら、彼はさらに深い思考の海へと潜っていくのだった。




