第45話 師匠のレシピの謎と三種の陣地のシャトランジ・キッベ<上>
その日もシャハラは厨房で、師匠の形見である包丁を砥石にかけていた。
シュッ、シュッという冷たい摩擦音が響く。
包丁の刃はすでに鋭く研ぎ澄まされていたが、彼女は取り憑かれたように手を動かし続けた。この包丁を触っていると、心が落ち着くからだった。
刃の角度を変えようと柄を強く握ったその時、手のひらに奇妙な違和感が走った。
柄がわずかにずれたような感触。
「え……?」
不思議に思い、根元を確認する。経年劣化によるものか、側面に亀裂のようなものがあった。
よく見ると、傷だと思っていたそれはまっすぐな「継ぎ目」だった。
軽く捻った瞬間、パカッと乾いた音がし、一枚板のように見えていた柄は呆気なく外れてしまった。
「……嘘」
シャハラは焦った。
師匠が帝国に置いていった、あるいは置いていかざるを得なかった百味師の包丁。自分が得ることのできた唯一の形見である。それを壊してしまったと思うと、目の前が真っ暗になった。
ところが、柄の断面を見た瞬間、別のことに気がついた。
柄の中がぽっかりと空洞になっている。穴には丸められた布のようなものが押し込まれていた。
シャハラは震える手で布を引っ張り出した。開いてみるとそれは羊皮紙だった。
夜になると、カムランが食材を持ってやってきた。
日中も書庫にこもり、軍略を練っていた彼の額には若さに似合わない皺が刻まれている。その姿を認めるやいなや、シャハラは包丁を持って駆け寄った。
「殿下。見て」
「どうした?」
いつになく慌てた様子のシャハラに、カムランも驚いた。
「見つけてしまった。この包丁に、師匠が隠したものを」
シャハラは卓の上に外れた柄と、包丁の刀身を慎重に置いた。
「女子供が使うものじゃないのに、妙に軽いと思っていた。中が空洞になっていて、これが入っていた」
シャハラは、薄汚れた羊皮紙をカムランに差し出した。
手のひらサイズの羊皮紙の中心には、短い文章が書かれており、周囲の余白を埋め尽くすように「香辛料の配合」がびっしりと書き込まれている。慌てて書いたのか、文字はところどころ乱れていた。
「なんだこれは。……詩? いや、違うな」
「一見すると、料理のレシピのように見えるけど」
シャハラはカムランの手元を覗き込み、中央に書かれた文章を読み上げた。
「塩の海、三つの山、十三の釜。白の粉は四十、黒の蜜は七百を投じよ。北の風が吹く刻、鉄の串を二百、火の床に並べ、赤き肉の塊を六千、沈黙の水底にて熟成させよ。最後に、隻眼の獣の脂で満たせば、極上の晩餐が完成する」
読み終えたシャハラは、断固たる口調で告げた。
「中央の詩のような文章も奇妙だけど、問題はこの余白に書かれたスパイスの分量。この通りに入れたら、料理は完全に破綻する。これは食材の名を借りた別の何か」
カムランは羊皮紙を手に取り、その異常な文章を自らの知識と照らし合わせた。
「……十三の釜。黒の蜜は南方の糖蜜か? 隻眼の獣……これはヴァイエルのことだろうな」
カムランの声が徐々に低く、険しくなっていった。
「シャハラ、これは食材とスパイスを使った暗号文のようだ。それもお前の師匠が残したものだ。ダーリシュは大宰相の陰謀を密かに掴んでいた。それを書き記したものかもしれない。調べてみよう」
カムランは羊皮紙を懐に収めると、食材の入った篭を調理台の上に置いた。そのまま踵を返して厨房を出て行こうとした。
「帰るの?」
シャハラは、思わず背中に声をかけた。
今夜も持ってきた食材で料理を作り、食べていくものだとばかり思っていた。
昼間はバヒジら去勢兵や宦官、砂宮に暮らす女たちのためにパンを焼き、スープや肉料理を作って分配する。夜はカムランのために料理を作り、一緒に食べる。
これが今のシャハラの日常であり、当たり前の習慣になっていた。彼が来たばかりなのに帰ってしまうのは……心もとない気がした。
カムランは立ち止まり、肩越しに振り返った。
「ここで暗号を解くのは無理だ。資料を集めないといけないからな」
「そう……」
シャハラは残念そうに俯いた。
「今夜は『挽肉と砕き麦の平釜焼き(キッベ・ビ・サニエ)』を作ろうと思っていて……」
キッベ・ビ・サニエは、新鮮な羊の赤身肉と細かく砕いた麦をなめらかになるまで練り合わせた生地に、炒めた挽肉や玉ねぎ、松の実、シナモンや他のスパイスを混ぜたフィリングをたっぷりと挟み込み、銅の平鍋に敷き詰めて天火でじっくりと焼き上げる料理である。
表面はカリッと香ばしく焼き上がり、ナイフを入れた途端、中から肉汁とスパイスの香りがあふれ出す。
本来のキッベは油で揚げたもの、つまり肉入りの揚げパンが主流だが、シャハラはカムランの胃に負担がかからないよう焼くつもりでいた。
温かく力のつく家庭料理を食べさせようと、前もって下ごしらえをしていたのだ。
「キッベか……」
カムランも、惜しむような表情を見せた。
シャハラのどことなく寂しげな様子と、これから焼き上がる料理に後ろ髪を引かれないでもなかったが……彼はあえて難しい顔をした。
「明日また来る。その時に食べさせてくれ。今は暗号文が気になって、落ち着いて味わえない」
そう言い残すと、カムランは足早に厨房を出て行った。
後に残されたシャハラは、静まり返った厨房で小さくため息をついた。
カムランは逸る心を抑えきれず、真っ直ぐに外廷の書庫に戻った。
奥の機密保管所に入ると、考えられるだけの資料を取り出し、隣の物置に入った。扉を閉めると内側からしっかり施錠した。
卓の上に帝国の地図を広げる。
帝国全土の徴税記録、市場の物価変動記録、各州からの貢納品の帳簿、そして軍部の資料が積み上げられる。
カムランは上着を脱ぎ、気合いを入れて袖をまくった。シャハラから預かった羊皮紙を地図の上に置いた。
「さて、大宰相の暗部を覗き見たであろう百味師の頭脳……見せてもらおうか」
カムランは、羊皮紙に記された短い文章を改めて読んだ。
『塩の海、三つの山、十三の釜。白の粉は四十、黒の蜜は七百を投じよ。北の風が吹く刻、鉄の串を二百、火の床に並べ、赤き肉の塊を六千、沈黙の水底にて熟成させよ。最後に、隻眼の獣の脂で満たせば、極上の晩餐が完成する』
「塩の海。国の大きな収入源、莫大な塩税を生む地……富の吹き溜まりのことか。三つの山は……帝都へ続く主要街道にある三つの関所か」
塩の海(高税率地域)より富を吸い、三つの関(山)を越え、十三の釜を焚く、とは帝国の物流を暗示していると思われた。
「白の粉は四十、黒の蜜は七百……」
カムランは数字を呟きながら、持ち込んだ帳簿と照らし合わせる。四十や七百という数字を、兵士の「日糧(一日の最低糧食)」かと考えたが、軍隊の規模にしては少なすぎる。
だが、もしこれが質量の単位「ラズ」の「一万倍」を示す隠語だとしたらどうだ。
カムランの指先が、羽ペンを猛烈な速度で走らせる。真っ白な紙片に書き殴られていくのは数式だ。
「白の粉四十は、一万倍して四十万ラズ(約二十万キログラム)の小麦。黒の蜜七百は、七百万ラズ(約三百五十万キログラム)の糖蜜……。計算が合う! 二十年以上前から、毎年帳簿上で原因不明の『目減り』を起こしていた物資の量だ。いや、待てよ。これでは二万の軍勢を養うにも数週間で底を突く。大宰相ほどの男が、そんな杜撰な計画を立てるか?」
カムランは地図上の「十三の釜」を見つめ、ハッと目を見開いた。
「そうか。このレシピは総量じゃない。弾き出された十三の拠点、その一つあたりの備蓄量を指しているんだ」
脳裏で巨大な数字が結びつき、鳥肌が立つのを感じた。
「だとしたら、十三箇所を合わせて……小麦五百二十万ラズ、糖蜜は九千百万ラズ。二万の私兵が半年以上、帝都を完全に包囲し続けるに足る兵糧の山だ。そして、鉄の串二百は一万倍して二百万。これだけの数の矢や予備の武具があれば、軍勢を武装させることができる」
料理のレシピという皮を被った暗号。
大宰相が長い歳月をかけて密かに構築してきた国家転覆のための軍事・兵站ネットワーク。ダーリシュはその全貌を掴み、暗号として書き残したのか。
「赤き肉の塊を六千……一万倍して六千万。これは兵糧ではなく金貨のことか。金は腐らず錆びない。見つからないように、十三の釜の地下にある『貯水槽の底』にでも沈めたのか。だが、その十三の釜はどこにある?」
蝋燭の蝋がどろりと溶け落ちる中、カムランは羊皮紙の余白に目を落とした。
中央の文章を囲むように、極小の文字で「香辛料の配合」がびっしりと書き連ねられている。
「クミン三十四、コリアンダー十二、カルダモン四十五、シナモン二十八……おかしい。十三の釜に対して、これほど膨大な配合データが並んでいるのはなぜだ……?」
カムランは眉間を深く寄せた。
インクで汚れた指先で、紙面を埋め尽くす極小の文字をなぞった。
よくよく見ると、何百とあるスパイスの羅列の中に特定の二種類――クミンとその後に続くコリアンダーの組み合わせだけがちょうど十三回、等間隔で現れていた。
「前後の他の数字は十三組を隠すためのダミーか。数字は必ず二つで一組……重さではない。これは……」
彼は数字の羅列をじっと見つめ、あっと声を上げた。
「都を基点とした、軍部独自の『作戦区画番号』と『詳細位置コード』か!」
カムランは弾かれたように立ち上がり、コンパスと定規を持った。網の目のように縦横の境界線が引かれた軍部極秘の作戦地図を持ってくると、地図の上へ覆い被さるように身を乗り出した。
香辛料の数字を、帝都からの方角を示す区画番号とそこからの距離へ変換し、赤いインクで点を打っていった。
一つ、二つ、三つ……。
赤い点は、帝都を遠く取り囲むような環状線を描き、次々と広がっていった。
深い渓谷、人里離れた盆地、廃鉱山といった天然の窪地。
地形そのものが巨大な「釜」の形をしている場所だった。
最後の十三個目の点を打ち終えた瞬間、カムランは腹の底から歓喜の哄笑を漏らした。




