第44話 兵站の罠、死地への行軍<下>
「早ければ十日くらいかな。東北の戦地に到着する頃には、肉の塊には蛆が湧き、悪臭を放つ猛毒の腐肉に変貌している。それを食べた兵士たちは激しい腹痛と下痢に見舞われ、熱を出して次々と倒れる。剣を振るうどころか、まともに立つことすらできなくなる。こんなものを納品するなんて……どうかしている」
「いや、各商会はまともな品を納めているはずだ。おそらくは内部で粗悪品とすり替えているのだろう。正規品は転売か、どこかに備蓄しているのか」
大宰相は、規定通りの塩漬け肉を着服し、粗悪な未精製岩塩を肉に擦り込んだものを「兵糧」として送り出そうとしているのだ。
「肉がこの有様なら麦も期待できないな」
カムランは麦の入った袋を開けた。
中にはぎっしりと小麦が詰まっている。シャハラは、袋の奥に手を入れた。一握りの麦を掬い上げると、不快そうに顔をしかめた。
「どうした?」
「熱い。それに湿気っている」
シャハラは眉をひそめながら、掴み出した麦をカムランの鼻先に差し出した。かすかにだが青臭さと、すえたような匂いが漂ってくる。
「麦の乾燥工程を大幅に省略している。手抜きというより意図的? 水分の重さで全体の重量を『水増し』して、その分の代金を横領したのかも」
「少し湿っている程度なら、腐肉ほどの被害にはならないのではないか?」
「なる。取り返しのつかないことに」
シャハラは手のひらの麦をパラパラと袋へこぼしながら続けた。
「麦などの穀物は、収穫後に完全に乾燥させないと、内部に残った水分によって麦が呼吸を続ける。自ら熱を発し続けるの。これを木箱に詰め込み、輜重馬車で何週間も運んだら……」
「まさか」
「砂漠も通るのでしょう? 行軍の熱気も手伝って、わずか数日で蒸れ返って、青カビや黒カビが繁殖する。カビが放つ熱で麦は腐り落ち、最悪の場合、カビ毒が発生してしまう。それに、たとえカビを免れたとしても、湿気と熱気で麦自体が『発芽』してしまう。芽を出すために栄養を使い果たした麦は、味も素っ気もないただの殻になり、最後はドロドロに溶けてしまう」
主食である麦はカビが生えるかスカスカの殻になり、副食の塩漬け肉は蛆の湧く腐肉となる。
「つまり戦地に到着する頃には、兵士たちの口に入るものは何もないというわけか」
アルマン以下五万の兵士は、前方の敵と戦いつつ、後方の味方から毒を盛られるわけだ。
届いた兵糧を食べれば病気になってしまうし、食べなければ飢えてしまう。大宰相が密かに進めるあまりにもおぞましい謀略だった。
カムランは、彼にしては珍しく怒りを露わにした。
「正気とは思えん。帝国の正規軍すら潰す気か」
シャハラも頷く。
「自国の軍に毒を盛るなんて。地方軍が壊滅すれば、国境が危うくなるのでは? そこまでして第一皇子を潰す理由があるの?」
「……ある。だからこそ、こんな罠を仕掛けてくる。おそらく奴には『次の一手』が用意されている」
カムランは卓に両手をつき、シャハラを越えた先の暗闇を睨みつけた。
「殿下。さすがにこれは皇帝に報告した方がいいのでは?」
シャハラの声が焦りを帯びる。
「無駄だ。皇帝は病床にある。上奏が届くことはないし、必ず途中で握り潰される」
それに兵站の横領やすり替えを告発したところで、巨悪の根を断ち切ることはできない。大宰相は必ずトカゲの尻尾切りを行い、兵部卿や納品した商会に罪を着せるはずだ。
そして今度はカムランを潰しにくる。刺客を送ってくるか、罪をでっちあげるか。何にせよ今の自分では太刀打ちできない。
カムランは心中で呟く。……仕留めるなら、一気に喉笛に噛みつかねば。
彼はしばらく逡巡したが、首を横に振った。
「兵站の件は黙っていよう」
「それじゃ……」
「このまま輜重部隊を出発させる。彼らには、大宰相が用意した兵糧を運んでもらう。手間暇かけてゴミを運ぶようなものだが時間は稼げる」
カムランの声は苦渋に満ち、かすかに震えていた。
自らが対峙する敵――大宰相という怪物の巨大さと残酷さに、底知れぬ恐ろしさを感じていた。
「輜重部隊は行かせるが、アルマンと五万の兵を見殺しにはしない。無傷とはいかないだろうが、なんとか兵糧を確保して戦力を温存したい。大宰相はアルマンの軍が飢え、戦線が瓦解するのを待つだろう。ならば我々は、五万の軍を丸ごと都へ向かわせるよう仕向けたい。要するに上洛だ」
「上洛……」
カムランは懐から帝国の地図を取り出し、卓にばさりと広げた。使い込まれた羊皮紙には、帝国全土の地形が緻密な墨の線で描き出されていた。
中央にどっしりと構える都から、太い血管のように北へ伸びているのが「北の大街道」だ。街道はなだらかな平野部とラカン砂漠を抜け、ダルド山脈に沿ってくねくねと曲がり、北辺の防衛拠点であるヤジデの街へ至る。
カムランは手燭を引き寄せた。揺らめくオレンジ色の炎が、地図に落ちる二人の影を濃くする。
「ここがヤジデだ」
カムランの指先が地図上の北の要衝を叩く。
そこから東の方へ視線を移すと、等高線が極端に密集し、鋸の歯のように険しい山容が描かれた一帯がある。
「ヤジデからはるばる東にあるのが、蛮族の領域であるムスハ渓谷だ。対して、ヤジデからやや南西へ下ったこの一帯……」
指先がなぞった先には、深い森を思わせる薄墨で塗りつぶされた「ギダ高地」があった。
シャハラも身を乗り出し、炎に照らされた地形図を食い入るように見つめる。
息づかいが聞こえるほどの距離で、二人は地図という盤面を共有した。
地形の起伏、軍の機動力、そして大宰相の監視網。
あらゆる要素を頭の中で考察し終えると、カムランは作戦を語り始めた。
「遠征軍のルートを考えよう。北辺の駐屯地・ヤジデにはアルマン以下五万の兵がいる。おそらくすでにムスハ渓谷へ向けて先遣隊が出立しているはずだ。近いうちに本隊もヤジデを発ち、わずかな携行食を持って東へ進み、ムスハ渓谷の手前で布陣するだろう。一方、輜重部隊はあと数日で都を出立し、北の大街道を北上する。大規模ゆえに進軍速度は遅いが、十五日から二十日くらいで渓谷の入り口に辿り着き、そこでアルマン本軍と合流する」
カムランの指先が、ムスハ渓谷の手前を強く叩く。
「渓谷に入ってしまえば完全な敵地だ。山道では隊列が長く伸び、敵襲を受ければ分断されやすくなる。大宰相が仕込んだ腐肉とカビ麦が牙を剥くのはまさにここだ。ならば合流直後……危険地帯に入る手前で、軍の進路を反転させる。今度は一路都へ向かう」
「反転させて大街道を戻るの?」
「それでは大宰相の息がかかった関所や砦に阻まれる。そこでこれを使う」
カムランの指先が、大街道から外れた西側の山脈の空白地帯をなぞった。
「ヤジデには戻らず、南西のギダ高地に入る。ここには、一般の地図には記載されていない秘密の軍用路『黒の回廊』の入口がある。回廊を通れば三日で都の近くに出られる」
黒の回廊は、第二皇子派が密輸に使っているルートであって大宰相は把握していないと思われる。
「大宰相の監視網もここまでは及んでいない。回廊を抜けられれば、五万の軍勢で都の側背を突ける」
アルマン軍が通れば、大幅に時間を短縮できる……が。
「いや、だめだ」
カムランは悔しそうに顔を歪めた。
「黒の回廊に見張りがいないわけがない。地方の軍閥かザイードの私軍に押さえられている。ミフラーン家の軍兵かもしれんが、奴らがおとなしくアルマンの軍勢を通すわけがない」
下手をすれば、ギダ高地でアルマン軍とザイード軍の戦闘が始まってしまう。すなわち内戦の勃発だ。土地勘のないところで足止めを食らえば不利になる一方である。
回廊を使うなら、まずは第二皇子派の私兵をギダ高地から引き剥がさないといけない。見張りの兵士が数十人か数百人程度になれば、強行突破できるだろう。
「うーん、名案だと思ったが。そううまくはいかないものだな」
カムランはひとしきり唸った。
「上洛する際の兵糧はどうするの?」
シャハラの素朴な問いに、カムランはハッとした。
「……それだ。黒の回廊は身を隠して進めるが、食糧調達は不可能だ。食糧なしで回廊を進むことはできない」
カムランは地図に突っ伏すようにして頭を抱えた。
表向きは地方軍が国内を移動し、都へ上るだけである。もし近隣の街や村から食料を徴発したり、奪ったりすれば野盗や賊軍と何も変わらない。人心は離れ、アルマンの名は地に落ちてしまう。
「結局は兵站の壁に阻まれるのか。この壁さえ突破できれば、大宰相の野望を挫くことができそうだが……。軍を動かすには、何としても補給を続かせないといけない」
カムランは大きく息を吐き、難問に頭を悩ませるのだった。




