第43話 兵站の罠、死地への行軍<上>
後宮の白蓮の宮。
その日、奥の応接間には重苦しい空気が漂っていた。
カムランはソファに腰を下ろし、第一皇妃ラミアとその横に座ったヌルルと向き合っていた。
常日頃のご機嫌伺いだが、いつもは明るい女たちの顔が暗いことが気になった。
「陛下はもう誰ともお会いにならないわ」
表に出てこなくなった皇帝の近況について、ラミアが重い口を開く。
「第八皇妃が何度も見舞いと看病を申し出ているらしいけど、面会謝絶で扉は固く閉ざされたまま。妃たちだけでなく、重臣たちもお姿を拝見していない」
「それほどに病が篤いのですか」
カムランは、甘いレモン水で喉を潤しながら尋ねた。
父である皇帝には数えるほどしか会ったことがない。
それも大勢の廷臣や皇子たちに囲まれての謁見である。二人で話したことはなく、親子の意識は希薄だった。
「臥せっているのか身体は動かせるのか、それすらもわからない」
ラミアはため息をつき、それを隠すように扇で口元を覆った。
「侍医の一人に金を握らせて聞き出したの。大宰相は陛下に阿片を勧めたようよ。確かに病気の痛みは和らいだけど、常用するようになってしまったとか」
「阿片を?」
カムランは眉をひそめた。
阿片は強力な鎮痛剤だが、量を誤ればたちまち依存してしまい中毒に陥る危険な薬だ。
もし皇帝が治療にかこつけて阿片漬けにされてしまったのなら、政務はおろか正常な思考も期待できない。
「……あの人ももうだめかもね。若い女にうつつを抜かすくらいなら可愛いものだったけれど」
ラミアは、長らく連れ添った妻らしい鷹揚さを滲ませつつも声を落とす。
「そして降って湧いたような遠征のご命令。陛下のお考えとは思えない」
「確かに……」
カムランも相槌を打つ。
突然、皇帝の勅命により、第一皇子アルマン率いる地方軍が大規模な遠征に出ることになった。
名目上は、東北の国境地帯を荒らす蛮族の討伐ということになっている。
だがアルマンが向かう地、ムスハ地方は鬼門である。
東北の国境線は峻険な山岳地帯で、入り口たるムスハ渓谷を抜けるとそこからは帝国の支配が及ばない異郷となる。山地に住まう部族は、険しい地形を縦横無尽に駆け巡り、帝国軍に対して神出鬼没のゲリラ戦を仕掛けてくる。
帝国は過去に何度もムスハ地方を平らげるべく遠征を行ったが、敵方に補給線を断たれ、不慣れな山岳戦に翻弄されて失敗に終わっていた。
皇帝が病気だか阿片中毒だかで正常な判断を下せないなら、遠征を決めたのは大宰相だろう。
アルマンを国外に出し、戦地へ送ることで何を企んでいるのか。
「遠征を成功させれば、アルマンに皇太子の地位を約束するとのこと。陛下が壮健であればどんなにか嬉しく思ったでしょうけど……おそらく違う。これはあの子を陥れる罠よ」
ラミアはうら若きヌルルを見つめ、細い肩を抱き寄せた。
「アルマンあってこその私たち。あの子が失脚すれば私たちも一巻の終わり。いよいよ覚悟を決めなくてはいけないようね」
ラミアは毅然と胸を張ったが、その姿には迫り来る危機に対する悲壮な決意が込められていた。
「叔父上、父上や外のこと……何かご存知ないですか」
ヌルルが祖母の手を握りながら、不安そうに言った。
カムランは厳しい表情のまま、しばし黙考した。
「私の方でも調べてみます」
とだけ言うと、すっくと立ち上がった。
都は、鉄と穀物、塩の匂いに包まれていた。
白昼の大通りを重装歩兵の甲冑の音が揺るがし、軍馬のいななきがあちこちで響く。
遠征軍を支える兵站の準備が急ピッチで進められていた。
第一皇子アルマン率いる五万の兵士を数ヶ月にわたって戦わせるためには莫大な量の物資が必要となる。
武器、防具、矢玉、馬車に馬草、燃料、精度を要する機材、何よりも兵士たちの胃袋を満たす兵糧。兵站が続かないことには戦闘は継続できない。
都中の商会が総動員され、大量の小麦と保存食としての塩漬け肉が昼夜を問わず軍の集積所へ運び込まれていた。
後方支援の余波は黄昏の砂宮にも及び、空っぽだった倉庫にも、軍用物資の一部である大量の木箱が搬入される事態となった。
夜の帳が下りた頃、カムランは砂宮に木箱と麻袋を持ってやってきた。それは、軍の輜重部隊に納入された兵糧用の塩漬け肉と麦だった。
配下を忍び込ませ、一部を持ってこさせたのである。卓の上に置くとドスッという鈍い音が響き、袋の口から赤黒い肉の塊がのぞいた。
「……それは?」
砥石に向かっていたシャハラが顔を上げた。
彼女の手には、亡き師匠の包丁が握られている。刃こぼれし赤錆に覆われていた鉄の塊は、シャハラの研磨によって、今や鋭利な銀の輝きを取り戻していた。
「アルマン軍に送る兵糧だ。遠征軍の兵站を統括しているのは、大宰相の息がかかった兵部卿だからな。嫌な予感がして、一部をかすめ取ってきた」
カムランは外套を脱ぎ、疑惑に満ちた目で箱と袋を見つめた。
「これがまともな兵糧ならいいのだが。どうも嫌な予感がする」
カムランの視線が、シャハラの手にある包丁に移る。
「お前の目で、この肉と麦を解剖してくれ。兵士たちが口にするこの糧に問題がないかを調べて欲しい」
シャハラは頷くと、袋から赤黒い肉の塊を取り出し、まな板の上に置いた。
羊や豚の腿肉を丸ごと塩漬けにし、乾燥させたものである。表面にはびっしりと白い塩が噴き出しており、一見したところ軍の規定を満たした標準的な保存食に見える。
シャハラは肉に刃を立てる前に、指先で表面の塩を削り取り、手燭の火にかざした。
「……殿下。帝国軍の規定において、保存食の塩は何と定められている?」
「高純度の『精製海塩』、あるいは不純物を取り除いた『特級岩塩』だ」
カムランはすらすらと澱みなく答えた。
「長期間の保存に耐え得るよう水分を極限まで抜く必要があるからな。塩の質は兵士の命に直結する。ゆえに、塩の調達には大きな予算が割り当てられているはずだ」
「そうなんだ」
シャハラはどこか悲しそうに言った。
「なら、この塩は規定外どころの騒ぎじゃない」
シャハラは包丁を肉の塊へ静かに押し当てた。
刃先が、肉に食い込んだ粗塩をじゃりじゃりと鳴らす。
切り開かれた肉の断面を見ると、外側は塩で硬く締まっているように見えたが、中心部はどす黒く沈み、生々しい水分をたっぷりと含んだままだった。
シャハラは包丁の腹に付着した塩の粒をカムランに見せた。
「見て。この塩は、結晶の粒が大きく長方形に近い不揃いな形をしている。精製された塩であれば、雪のように細かく均一であるはず。これは精製工程を省き、粗悪な岩塩をただ砕いただけの『密造塩』よ」
「密造塩?」
さらにシャハラは、粗い塩の粒を自らの舌にのせた。
舐めながら顔をしかめる。
「……酷い雑味。塩気の奥に、舌を刺すような強烈な苦味とエグみがある。これは、不純物(にがり成分)が大量に含まれている証拠。つまり、鉱山から掘り出したままの最下層の岩塩。食用に適さない」
カムランの顔から、すうっと血の気が引いてゆく。
彼は恐る恐る尋ねた。
「不純物が多く、粒の粗い岩塩を使うと肉はどうなるのだ」
「兵糧として意味を成さなくなる」
シャハラは淡々と事実を告げた。
「細かい精製塩は肉の表面に素早く溶け込み、内部の水分を外へと引き出す。水分がなくなれば腐敗は進まない。でもこのような粗く不純な岩塩では、肉の表面で溶け残るばかりか不純物が膜を作ってしまい、塩分が肉の中心まで到達しない」
シャハラは、水分を含んでどす黒く変色した肉の中心部を包丁の切っ先で突いた。
「表面だけは塩辛く乾燥しているように見えるけど、内部には水分と血が残ったまま。こんなものを木箱に詰め込んで、風通しの悪い輜重馬車で何週間も運べば……結果は火を見るより明らか」
「腐るというわけか」
カムランは舌打ちしたい気分に駆られた。




