第40話 第二皇子の鷹狩りと天空のスムマーン・ファルシー<二>
ザイードが合図を送ると、彼の護衛や、カムランに従っていたビジャンたちもぴたりと馬を止めた。
彼らはしばらくその場に留まったのち、皇子二人の後を、距離をとって追従した。
飾り立てられた二頭の馬が並んで進む。規則正しい蹄の音が乾いた風に混じる。
「兄上、この度はお招きいただき光栄の至りです。日頃、書庫に引きこもりがちな私にとって過分な気晴らしとなりました」
カムランは卑屈な笑いを浮かべながら、ザイードの顔色を窺う。
ザイードは、前方の山々を見つめたまま口を開いた。
「さあ、本当に書庫にいるのやら……。取って付けたような挨拶は結構だよ、カムラン。お前がアルマンの子飼いであることは知っている」
心臓を冷たい指で触れられたような衝撃を受けつつも、カムランは努めて平静を装った。
「単刀直入に言おう。私の元へ来ないか?」
ザイードの声は、天気の話でもするかのように穏やかなままだ。
「兄上には優秀な部下が多くおられるでしょう」
「今はそうでもないんだ。特に武官が不足している」
「それは知りませんでした」
カムランは素知らぬ顔で相槌を打つ。
「私なら、お前にアルマン以上の未来を与えられるけれど。どう?」
カムランは困惑したように、弱々しく笑ってみせた。
「ありがたいお申し出ですが、私はどこの派閥に属する気もなく。ご覧の通りの虚弱体質ですし、宮廷の政務や軍務をこなせる器ではありません。兄上のお役には立てないかと」
「その殊勝な口上はアルマン譲りではなさそうだね」
ザイードはふっと鼻で笑い、ゆっくりと首を巡らせると、カムランの目を真っ向から見据えた。その瞳には、善意とも悪意ともつかない胡乱な光が浮かんでいる。
「私はお前を見直しているのだよ。虫も殺せぬような顔をしてネダルを叩きのめし、アニサ王女を奪い取ったそうじゃないか」
今度こそ、カムランの背筋に冷たいものが走る。
ネダルを拉致し、地下水路で屈服させた事実。冠百合の宮でのことをザイードは知っているのか。
同時にカムランは直感した。……違う。これはカマをかけているだけだ。あのプライドの塊のようなネダルが、格下と見下す弟に敗北した事実を他人に漏らすはずがない。
ザイードは確かな証拠を掴んでいるわけではない。
カムランがアニサ王女を得、ネダルが引き下がったという不自然な状況から、大胆な推測をぶつけてきているだけだ。
カムランは、大袈裟に肩をすくめ、ひどく恥じ入ったような情けない顔をした。
「叩きのめすなんてまさか。何かの誤解です。アニサ王女は……私がネダル兄に頼み込んで譲ってもらったのです」
どこか芝居がかった弁明をするカムランを、ザイードはじっと見つめる。
「ふうん……。譲ってもらった、ねえ」
ザイードは馬を少し近づけ、カムランの耳元に囁くように言った。
「じゃあ、私がアニサ王女をくれと言ったら、お前は大人しく差し出すのかい?」
その問いが発せられた瞬間、カムランから、気弱で無害な空気が消えた。
「……お戯れを」小さいながらも威嚇するような声。
ザイードはカムランの豹変ぶりに、肩を揺らして笑った。
「安心しなよ。私はか弱く美しいものが好きだけれども、使い古しに興味はないんだ。鷹も女もね。まあいい、能ある鷹はなんとやらというし。お前がそれほど王女に執着しているのなら話は早い」
ザイードは再び前方を向き、手綱を握り直した。
「もし、お前が私のためにその爪と知恵を振るう気があるなら、アニサ王女を砂宮から出してあげるよ。彼女は実質的に囚人の身の上だが、人質から解放し、帝国の貴婦人として正当な身分を与えよう」
その提案に、カムランは心を動かされないこともなかった。
「それは魅力的な提案ですね」
「だろう?」
急に乗ってきた弟に、ザイードはさらに言葉を重ねる。
「皇帝陛下は、このところ病がちで表に出てこなくなった。そのため政は大宰相に牛耳られているが……代替わりの日はそう遠くないよ。私が皇帝となったあかつきには、お前を『帝都防衛大隊の長』に据えてもいいと思っている」
帝都防衛大隊長。それは帝国の心臓部たる首都の治安と軍事を一手に握る要職である。
現在は老獪なバルト将軍が大隊長を務め、首都防衛の任に当たっている。
バルトは中立派で、どの派閥にもなびかない。
次長のタリムは第二皇子派だったが、カムランが密かに抹殺した。
ザイードからすれば、アルマンが地方にいるうちに都を手中に収めたい。そのためには、融通の利かないバルトと、彼の麾下の二万の兵をなんとかしなくてはならない。
タリムを失った以上、私兵と後ろ盾であるミフラーン家の軍兵だけでバルトを打破するのは難しかった。
ザイードもわかっている。金はうなるほど持っていても、最後にものを言うのは武力だ。
カムランは恐る恐るといった風に尋ねた。
「大隊長はバルト将軍です。彼の配下が私のような若造に従うでしょうか」
「バルトは老齢だ。そろそろ引退してもいい頃合いだよ。大隊長になれば、お前は確固たる地位と権力を得ることになるし、晴れてアニサ王女と結婚できる」
カムランは沈黙した。
ザイードはどこまで本気なのだろうか。第一皇子アルマンは堅物で、自分を重用したとしても、ここまで破格の条件を提示することはないだろう。少なくとも帝都防衛大隊長にはしない。
ザイード側に付けばシャハラを助けることができ、自らも強大な力を得ることができる。
だが、懸念もある。皇帝になったザイードが果たして約束を守るだろうか。証書を貰ったとしても、破り捨てられれば終わりだ。
「……確かに。ええ、確かに」
カムランは声を押し殺しながら目を閉じた。
淡い光が透けるまぶたの裏に己の未来を探る。
ザイードはなおも甘い毒を吐く。
「アニサ王女も、頼りとする男が無位無官のままでは心細かろう。女というものは、常に強き者に庇護されたいと願っている。早く安心させてあげることだね」
カムランはゆっくりと目を開けた。
大きく息を吐き出すと、掴みどころのない微笑を浮かべ、あえて迷うような素振りを見せた。
「兄上の多大なるご厚意、この胸に深く染み入りました。ですが、私のような愚物に大役が務まるかどうか……今は自信がありません。少し考えさせてください」
「いいだろう。でも時間はあまりないよ。手遅れにならぬうちに賢明な道を選ぶことだね」
ザイードは、話は終わったとばかりにくるりと馬を返し、護衛たちの方へ戻り始めた。
その優雅な後ろ姿を見つめながら、カムランは肩に乗ったパルヴィーンの背中をそっと撫でた。パルヴィーンは首を大きく突き出し、キイッと鳴いて応えた。
差し出されたのは、極上の蜜を塗った菓子か、あるいは死地へ導く毒の塗られた刃か。
宮廷の嵐は激しさを増してゆくばかり。ここから先は綱渡りだ。一歩でも踏み間違えれば奈落の底へ落とされる。
カムランは内に秘めた野心と、砂宮にいるシャハラ、そして兄たちの姿を思い浮かべながら、次なる一手を見定める。




