第38話 香味の錬金術師と宮廷料理版マヒ・サルフ<六>
「あれからすぐに、外廷の記録と当時の関係者に当たらせた。ダーリシュという男の経歴は、確かに華々しいものだった。だが、彼の記録は百味師の称号を得て、大料理長に就任した時点でぷつりと途絶えている。その後、いかなる理由で職を辞したのか、どこへ消えたのか、公的な記録は存在しないようだ。あったとしても消された可能性がある」
「記録も消されてしまうんだ」
「抹消や改竄はよくあることだ。切り取りや欠落、継ぎ足されたらしき新しい紙や墨など、私も普段からおかしな書物によく遭遇する。とはいっても二十年前なら、人の記憶から情報の切れ端は見つかる。聞き込みで興味深いことがわかった。ダーリシュが失踪したとされる同時期に、外廷でとある高官の暗殺未遂事件が起きていた。不可解なことに、事件の捜査はメリクの鶴の一声で早々に打ち切られている。関係者は散り散りになり、真相は闇の中だ」
カムランはそこでいったん言葉を切り、包丁へ視線を落とした。
「メリクは、ダーリシュを暗殺未遂事件の犯人に仕立てようとして失敗したのかもな。そしてとうとうダーリシュを見つけ出し、ファルハ陥落の夜、送り込んだヴァイエルに始末させた……。いずれにせよ、ダーリシュは長年メリクに追われていたと考えるべきだろう」
「師匠は何を知ってしまったんだろう」
大宰相メリクと隻眼の将軍。その名を口にするたび、シャハラの胸に燻る復讐の炎が熱を帯びる。
だが今、炎を覆い隠すように込み上げてきたのは、キアンに対する自責の念だった。
「殿下、聞いて」シャハラは、絞り出すように言った。
「三年くらい前のことよ。私は『アニサ王女の影武者』として所望されたの」
「影武者、だと?」
「うん。ある日、侍従長が厨房にやってきて。私は王女と似ているから、その盾になるようにと言われた。とても名誉なことで、影武者になれば贅沢な生活ができると。でも私には信じられなかった」
シャハラの脳裏に、その日の光景が蘇る。
傲慢な使者の前でキアンは膝を折り曲げ、額を床に擦りつけるようにして平伏した。
シャハラは彼の背後で身を縮めて震えていた。どこにも行きたくなかったし、料理ができなくなるのも嫌だった。キアンの傍にいたかった。
「私を差し出せば、大金が貰えるはずだった。でも……師匠は断ったの。何度も何度も頭を下げて、私を渡そうとしなかった」
シャハラの華奢な肩が震えた。
『どうかご容赦ください。この子は気が利かず、愚図でのろまで、火の番しかできないぼんくらです。下町の下品な育ちゆえ、王女さまの影武者など務まるはずがありません』
キアンは鬼気迫る顔で懸命に言い募り、王命を拒絶した。
押し問答が続いたが、キアンは慇懃ながらも一歩も引かなかった。侍従長も最後は諦めて帰っていった。
「師匠はお金を手にして逃げることもできた。そうすれば大宰相に見つからず、死なずに済んだかもしれないのに。私が……師匠の足枷になってしまった。王城に縛りつけてしまった……!」
慟哭にも似たシャハラの嘆きが響いた。
「馬鹿を言うな」
カムランの声は厳しく、それでいて芯に優しいものを含んでいた。
彼には、シャハラを想うダーリシュの気持ちが痛いほどわかった。
「影武者がどういう存在か、お前はわかっていない。影武者は死と隣り合わせの道具だ。常に主人の矢面に立たなくてはならない。暗殺者の刃を受け、毒入りの杯を飲み干すために。武術の心得がある軍属ならいざ知らず、お前のような素人はひとたまりもない」
シャハラは涙に濡れた瞳でカムランを見つめた。
「大金が下賜されると言ったな。当然だ。それは、娘を死地に送る親への『口止め料』であり『弔慰金』を兼ねているからだ。影武者は王族の身代わりとして死ぬ。ゆえに死後も本名を残すことは許されず、葬式も出せなければ、墓を作って弔うこともできない。金と引き換えにこの世に存在しない者になるんだ」
カムランは、宮廷にはびこる暗黒の掟を忌憚なく説明した。
「ダーリシュは、お前をそんな目に遭わせたくなかった。お前が誰にも知られず、暗殺者の手にかかって死んでいくことに耐えられなかった。……お前と一緒にいたかったんだろう」
「そうなのかな?」シャハラは不安そうに言った。
「お前に失った家族の面影を見ていたのかもな。四歳の時から一緒にいるなら娘も同然だろうが」
同時に、なんとも皮肉なことだとカムランは思った。
ダーリシュはシャハラを影武者にしなかったのに、結局当の王女は死んでしまい、シャハラはアニサ王女にされてしまった。シャハラは、このままアニサ王女として生きるほか道はない。もし素性がばれたら、王女を騙った罪で捕らえられ、処刑されてしまうからだ。
「ヴァイエルに強要された」と訴えたところで、奴らは知らぬ存ぜぬとしらを切り通すだろう。そうなれば、シャハラは仇に何一つダメージを与えられないまま死ななければならない。
シャハラは袖口で乱暴に涙を拭うと、包丁の柄をしっかりと握りしめた。
「私、決めた」
その声には、もはや一寸の迷いもなかった。
「この包丁を研ぎ直す。ここで師匠が遺した刃を振るう」
「左利きじゃないのに使えるのか」
「元々は右利き用の包丁だし、お守り代わりに」
それは単に料理の道具としてではなく、この刃に込められたダーリシュの信念と無念、そして大宰相メリクに立ち向かうシャハラの覚悟そのものだった。
「そうか。お前も刃になるか」
カムランは、鋼のごとき決意を湛えたシャハラを見つめ、ふっと唇の端を吊り上げた。




