第37話 香味の錬金術師と宮廷料理版マヒ・サルフ<五>
「でも、これは庶民の料理だから。殿下に出すのは違うものにする。マヒ・サルフの宮廷料理版」
シャハラは話しながら、魚の身に潜む無数の小骨を毛抜きで抜き取っていった。貴人の口を傷つけないための、徹底した引き算の技法である。
骨と皮を取り除かれた純白の身を、野蒜の絞り汁と果実酢を合わせた液に潜らせて泥臭さを取った。
「ここからが、宮廷の技よ」
「ファルハのか?」
「……帝国の技法かも」
シャハラは少し寂しそうに言った。
彼女が用意した衣は、ただの大麦粉ではなかった。
砕いたピスタチオと胡桃を大麦粉とブレンドし、さらにカルダモンを少し振るい入れた。
熱源を調整し、厚手の鉄鍋に羊の尾脂を溶かした。これは最も純度が高く、甘いコクを持つ脂だ。
適温に熱された油の中へ、ナッツの衣を纏った魚の身をすべり落とす。
パチパチという軽快な音が厨房に響いた瞬間、ナッツが油と触れ合って焦げる香ばしい匂いと、カルダモンの妖艶な薫香が広がった。
庶民用の泥魚が、極上の衣と炎の魔法によって瞬く間に芸術品へ姿を変えていく。
絶妙な火入れで表面をカリカリに仕上げつつ、中の身にはふっくらとした水分を閉じ込めた。
「仕上げは、これ」
カリカリに揚げられた黄金色の魚の上に、シャハラが回しかけたのは、とろりとした艶やかな琥珀色のソースだった。
オレンジの爽やかな香りに、カムランは鼻をひくつかせた。
「柑橘のソースか」
「今日は橙を使ってみた」
天日干しにした杏を橙(ビターオレンジ)の搾り汁とともに煮詰めて裏ごししたものに、赤いスマックを散らし、ディルの柔らかな葉が添えてある。
皿を受け取ったカムランは、琥珀のソースと深紅のスパイスが織りなす洗練された色彩の対比に目を奪われた。
食べるのが惜しい気がしながらも、熱々の揚げ物を口へ運んだ。
まず舌を打ったのは、サクサクと小気味よく砕けるナッツの衣の食感。ピスタチオの甘みとクルミの渋みが、羊の尾脂の重厚な旨味と融合している。
そこへカルダモンの高雅な香りが鼻腔を突き抜け、油の重さを洗練された風韻へ昇華させた。
そして、衣を破った先にある純白の身。
小骨一つない白身は真珠のようになめらかで、舌の上でふわりと溶ける。野蒜と果実酢によって泥臭さはまったくなく、清らかな魚の滋味が、温かな脂と旨味とともに口いっぱいに広がった。
これだけでも十分に美味いが、この一皿を真に完成させているのは、甘やかな香りを放つソースだった。
杏の甘みがナッツと脂のコクを優しく包み込み、橙の気品ある酸味が味の重たさを鮮やかに切り開く。二つの強い個性が、反発し合うことなく互いを高め合っていた。
鼻に抜けるディルの清涼な香り。時折舌に触れる深紅のスマックが、心地よいアクセントとなって味覚を十全に覚醒させる。
澄んだ柑橘の酸味、果実の上品な甘味、計算し尽くされたハーブとスパイスの余韻が、カムランの舌の上でオーケストラを奏でた。咀嚼するごとに、下町の荒々しい生命力と、宮廷の洗練された美意識が幾重にも交錯し、めくるめく味の万華鏡となって歓喜を呼び起こす。
「……美味い。そして面白い。雑多なようで洗練されている。使っている食材は安物のはずなのに、格調高い味がする」
カムランは戸惑いつつも、あっという間に一皿を平らげてしまった。
「料理は、食材の値段で決まるわけじゃない。もちろん鮮度や銘柄も影響するけど、どう組み合わせてどう生かすか」
シャハラはカムランに、口直しの青菜のサラダを差し出した。
至福の晩餐が終わり、卓の上には二人分の地封茶が置かれていた。薄暗い室内で、カムランは素焼きの杯を傾け、ふうと長く心地よい息を吐いた。
「お前の料理には、いつも心を揺さぶられる」
「よかった」
シャハラの顔には、昼間の庭園で見せたような決意の色が戻っていた。
彼女は、紫檀の木箱を卓の上に置いた。カムランに、黒ずんで刃こぼれした包丁を見せた。
「……それは?」
「今日の昼間、主厨房の地下にある古道具の山から見つけ出したもの。私の師匠キアンは帝国人、第十の百味師ダーリシュだった」
「お前の師匠は大料理長だったのか」
カムランは驚きつつも、様々なことに合点がいった。
シャハラが持つ卓越した料理の技術は、元々は帝国伝来のものだった。それが交通の要衝であり、食材の豊かなファルハでさらに高められたのだと。
シャハラは、包丁を愛おしそうになぞりながら言った。
「師匠は……私に料理のすべてを教えてくれたけれど、自分のことについては何も。家族や親類はいなかったし、近所の人や客とも親しくせず、いつも一人でいた。私は孤児だから……師匠も同じような天涯孤独の身の上なのだと思っていた」
「家族ならいたな……。部下も弟子も」
「うん。師匠はファルハの人ではなかった。帝国から逃げてきた亡命者だった。私は何も知らず、師匠は何も語らないまま逝ってしまった」
……もっと師匠と色々なことを話したかった。過去のことも打ち明けて欲しかった。そう思うと、切なさに胸がぎゅっと締め付けられる。
「お前が知りたがった『大料理長の失踪事件』とはそういうことか。ならば、私が探らせた結果とも符合する」
カムランは杯を置き、組んだ両手の上に顎を乗せた。




