第36話 香味の錬金術師と宮廷料理版マヒ・サルフ<四>
シャハラは道具の入った木箱とファヒームからもらった食材を傍に置き、外でカムランを待っていた。
一時間ほどして、石畳を蹴る軽快な足音が近づいてきた。
「待たせたな」
朗らかな声を響かせて、カムランが戻ってきた。
彼の背後には、柔らかそうな包みを抱えた二人の従僕が控えている。
包みには白蓮の宮でもらった女物の衣類や布地――最高級のダマスク織の反物や、金糸で刺繍されたビロード、軽くて使いやすい更紗がこれでもかと詰め込まれていた。
「余り物だが、十分に使えるものばかりだ。布はいくらあっても困らないだろう」
カムランは、得意げな笑みを浮かべてシャハラに向き直った。そこで、彼女の目が赤くなっていることに気がついた。
「……泣いたのか?」
カムランの声に戸惑いが混じった。
「まさか、あいつら。何か無礼を働いたのか。スープの具にしてやると言ったはずだが」
彼が猛然と厨房に入っていこうとするのを、シャハラは慌てて止めた。
「違う。何もされてない。泣いてしまったけど、それは得難い出会いがあったから」
「……ならいいが」
カムランは従僕たちに命じ、木箱と食材を持たせて砂宮に向かわされた。
「行こう」
そう言って歩き出したが、彼が向かったのは砂宮とは反対の方向だった。
カムランが連れていったのは本宮の壮麗な中庭だった。
足元には、見渡す限り瑠璃色や金糸雀色のモザイクタイルが敷き詰められ、午後の陽光を弾いて眩い光を放っている。
中央には白大理石の瀟洒な噴水が据えられ、幾筋もの清らかな飛沫が涼やかな音をたてていた。
周囲を縁取るように植えられた季節外れの薔薇は重たげな花弁を揺らし、甘く妖艶な香りを放つ純白のジャスミンが乱れ咲いている。
ここは、後宮の女たちが日々の憂きことを忘れて憩う聖域だった。
カムランは、シャハラを噴水の近くに置かれたベンチに座らせた。飛沫の冷気が肌に心地よく、シャハラはホッと息をついた。水が涸れて久しい、荒廃した砂宮の庭とは雲泥の差である。
カムランは、庭園の静謐な空気が彼女の心を鎮めてくれることを期待するように、隣に腰を下ろした。
あえて視線を外し、風のそよぎや鳥の囀りに耳を傾ける。
しばらく沈黙が続いた後、シャハラは意を決したように顔を上げた。
「殿下。お願いがある」
「なんだ」
「二十年前……宮廷で起きた『大料理長の失踪事件』について調べてほしい」
「大料理長の失踪、だと?」
カムランは秀麗な眉をひそめた。
二十年前なら、現在起きている権力闘争とは無関係に思えるが……。
シャハラは、小声で地下の道具部屋で見つけた包丁や百味師ダーリシュのことを話した。
メリク――その名が出た瞬間、カムランの顔に緊張が走った。彼の明晰な頭脳が、シャハラの話から推論を導き出す。
「二十年前と言えば、メリクが政敵を次々と蹴落とし、出世の階段を駆け上っていった時期と重なるか。そんな時期に宮廷の食を司る最高責任者が失踪し、一族は粛清された……。ダーリシュはメリクの秘密、例えば誰かの暗殺計画や私兵の育成に繋がる資金の横領に気づいてしまったのかもしれないな。だから抹殺されそうになった」
「その失踪したダーリシュ師こそが……」
シャハラはそこでハッとして押し黙った。
「続きは夜に話す。砂宮で」
「わかった」
カムランが周囲に気を配りながら頷いた。
「大料理長のことは、外廷の記録や、古参の官僚にそれとなく当たってみよう」
そう言うと、善は急げとばかりに勢いよく立ち上がった。
シャハラを砂宮に送り届けると、彼は外廷の書庫に向かった。
その夜、深い闇が後宮を包み込む頃、カムランは砂宮にやってきた。
配下から調査の報告を受け、やや疲労を滲ませたカムランの鼻をついたのは、漂ってくる香辛料と油の匂いだった。砂宮の女たちも匂いが気になるのかそわそわしている。
厨房を覗き込むと、シャハラは袖をまくり上げ、火の粉を散らすかまどの前で立ち働いていた。昼間見せた悲壮な色はない。
「殿下」シャハラは振り返り、微笑んでみせた。
「話があるの」
「私もだ」
シャハラは、これから火にかける鍋の縁を軽く叩いた。
「でも、その前に腹ごしらえね」
調理台の上には、主厨房から貰ってきた川魚が乗っていた。泥臭く小骨が多いため、宮廷の料理人は見向きもしない下魚である。シャハラは他の立派な魚と共に、安価な川魚も貰ってきたのだった。
「今夜は魚料理か」
カムランが魚を覗き込む。
「今夜は私の好物、『川魚のハーブ衣揚げ』を作る」
「マヒ・サルフ?」
「師匠がよく作ってくれた思い出の料理」
シャハラの声には、理不尽な暴力に抗う唯一の手段は、己の腕で美味なるものを作り出すことだと言わんばかりの気迫があった。
細身の包丁を取り出すと、まな板に向かう。
銀色の鱗をまとった魚の腹を流れるような刃筋で裂き、素早く下処理をしていった。
傍らには、細かく砕かれたエメラルドグリーンのピスタチオと胡桃、清涼な香りを放つ野生のディル、甘い薫香を持つカルダモンなどのスパイスが入った小鉢が並べられている。さらに、泥臭さを消すための野蒜や、果実酢を張った鉢も用意されている。
「本来のマヒ・サルフは、下町の市場で投げ売りされているような雑魚を使うの。川魚特有の泥臭さを誤魔化すために、野生のディルや香草をこれでもかと擦り込んで酸味の強い酢に漬け込む。小骨を抜く手間なんてかけられないから、そのまま大麦の粉をまぶして高温の油で揚げる。上品さとは無縁の大雑把な料理よ。市場に仕入れに行くと、いつもおまけで雑魚がもらえた。客には出せない代物を、師匠は美味しい賄いにして食べさせてくれた。……私にとっては一番の御馳走だった」
カムランは、やけに饒舌なシャハラの横顔を見つめた。
手元の洗練された動きと、育った下町の思い出話。
師匠への哀惜と、彼の弟子としての誇りが同居している。ちょっと無理をしているようにも見えた。




