第35話 香味の錬金術師と宮廷料理版マヒ・サルフ<三>
シャハラは、包丁を紫檀の箱に入れて持ち出した。
地下の道具部屋から上がると、再び主厨房の熱気と脂の匂いに包まれる。
しかし、彼女の内に吹き荒れる戦慄の嵐は、生臭い空気をどこか遠いもののように感じさせた。
そのままファヒームのところへ行く。
「ああ、王女殿下。良いものが見つかりましたか」
羊肉を捌いていたファヒームの手が、ぴたりと止まった。
彼の丸い目が、シャハラが持つ紫檀の箱に吸い寄せられる。
「大料理長」
シャハラはヴェールの奥から、昏い目でファヒームを見つめた。声音は静かだが、料理人としての執念じみたものが滲んでいる。
「これについて教えてください。あなたなら知っていると思って。なぜこの包丁が道具部屋にあるのかを」
「……それは。いけません、ここは耳目が多すぎます」
ファヒームは低く掠れた声で呟いた。
彼は周囲を見回し、弟子たちが忙しげに立ち働いているのを確認すると、小声で「こちらへ」と言い、厨房の勝手口から外に出た。
陽光が建物の隙間から差し込む狭い裏庭に入る。
ひび割れた壁には枯れかけの蔦が絡まり、生ぬるい風がシャハラの頬を撫でた。
ファヒームは、庭の隅でシャハラが差し出した紫檀の箱を受け取った。
蓋を開け、聖遺物に触れるかのように慎重に包丁を取り出す。太い指先が柄に刻まれた銘をなぞった。
「随分と久しぶりに見ました。これは……ダーリシュ師の忘れ物というか、形見というか」
「ダーリシュ……それがこの包丁の持ち主の名なのですね」
シャハラの問いにファヒームはため息をつき、遠い過去を思い出すように目を細めた。
「はい、二十年ほど前になりますか。当時、ダーリシュ師は、外廷の主厨房の二代前の大料理長でした。帝国建国以来、たった十人しかいない『百味師』の称号を持つ至高の料理人だったのです」
「百味師……?」
シャハラは、聞きなれない称号を舌の上で転がした。
百味とは「ありとあらゆる味」という意味だろうか。
かつてキアンが、スパイスを調合する際に見せた神懸かった手つきを思い出す。
「現在、帝国でスパイスとして認定され、流通しているものは約百五十種類ほど。が、それはあくまで帝国内での話です。他国や、秘境と呼ばれる地方の特産物、野に咲く名もなき薬草まで合わせれば、この世に存在するスパイスは何百、何千種類あるかわかりません。並の料理人は、手に入りやすい十数種を組み合わせるだけで、汲々としてしまいます。しかし……」
ファヒームの声に、ぐっと熱が籠もる。
「百味師は違う。百味師は百種類以上のスパイスを自在に掛け合わせ、千万の香りと味を作り出す者であり、帝国における料理人の最高峰です。人々は『香味の錬金術師』と呼んで尊敬し、素晴らしい香りと味に酔いしれる。ダーリシュ師は栄えある十番目の百味師であり、我々にとっては神も同然のお方でした」
「あなたもダーリシュ師に料理を習って……?」
「直に教わったのは数えるほどですが……。私の師である先代の料理長はダーリシュ師の直弟子であり、私は孫弟子にあたります」
ファヒームは、錆びついた刃を陽光に透かした。
非対称に研がれた左利き用の鎬が鈍い光を放つ。
シャハラは思い切って尋ねた。
「二十年前、一体ここで何が起きたのですか」
「ダーリシュ師は……何の前触れもなく宮廷から姿を消しました。朝、厨房に入ると師の姿はなく、私物だけがそのまま残されていました。この包丁は百味師の称号を得た際に皇帝陛下より下賜される世界に一振りしか存在しない貴重なものです。それが、調理台の上に箱ごと置かれていた。宮廷の役人たちは、師の物を没収し、すべて処分しようとしました。ですが、これだけは先代の料理長が密かに持ち出したのです。そして料理長が亡くなる際に私が受け継ぎました。その後、後宮に異動になり、この包丁は道具部屋の奥深くに仕舞っておいたのですが」
「なぜ……名誉ある百味師が失踪しなければならなかったのでしょう」
シャハラは胸の鼓動が速くなるのを感じた。
真実は近いようで遠い……そんな気がする。
ファヒームは、苦渋に満ちた表情で首をゆるりと振った。
「それが……わからないのです。何らかの事件や陰謀に巻き込まれたのか」
そこでファヒームの顔に、怒りと恐怖じみたものが浮かんだ。
「何か大きな力が動いたのは確かです。師が失踪したあと、師の親きょうだいや妻子は捕らえられ……当時は第三宰相だったメリク閣下の屋敷に連れていかれました。そして誰一人として帰ってこなかった……」
――やはり、大宰相なのか。
シャハラは、激しい目眩を覚えた。
宮廷の大料理長だったダーリシュを追い詰め、帝国にいられないようにしたのは、やはり彼の仕業だったのだ。
「大料理長」
シャハラは、ヴェールを自ら跳ね上げた。
露わになった彼女の顔は蒼白だった。
「私、ダーリシュ師に会いました」
「な、なんですと……!」
ファヒームが驚きのあまり、包丁を取り落としそうになった。
「今、なんとおっしゃいましたか。ダーリシュ師と? どちらで?」
「ファルハで……」
シャハラの声は震えた。
胸の奥から、堰を切ったように感情が溢れ出してくる。
「私は彼に……料理を習ったことがあって」
習ったどころではない。
シャハラが今、砂宮の厨房で振るっている様々な技術、砂宮の女たちやカムランを虜にしている料理は、独自のアレンジを加えてはいるものの、元はすべてキアンから教わったものだ。シャハラは老境に入った彼の最後の弟子であり、百味師の技と味を受け継いでいた。
シャハラは思った。
師匠は二十年前にすべてを失った。大料理長の地位も名誉も家族も。命からがら逃げて、行き着いた先がファルハだったのか。
過去を隠して「キアン」という名を名乗り、王都の片隅で小料理屋を営んでいた。そのまま目立たず、ひっそりと隠れ住んでいたかったに違いない。
だが、天から与えられた才能は、キアンを市井の料理人にしておかなかった。彼が作る素晴らしい料理と味は評判になり、ついにファルハの王城に召喚されてしまった。
顔を合わせたことはないだろうが、ファルハ国王の妃は帝国皇帝の妹であるし、王宮には帝国の使節や関係者もやってくる。キアンはどんな想いで、宮廷料理人として働いていたのだろう。およそ生きた心地がしなかったのではないか。
「それで……ダーリシュ師はどこにいらっしゃるのですか。もしや今もファルハに?」
ファヒームが、希望に満ちた目で言った。シャハラは消沈したようにうなだれた。
「王女殿下……?」
「亡くなりました」シャハラは血を吐くような思いで言った。
「えっ」
「都が落とされた夜。私を庇って……帝国軍に……」
そこから先は声にならなかった。
代わりに、シャハラの頬をひと筋の涙が伝った。
こぼれ落ちた雫がドレスの胸元に点々とシミを作る。彼女は両手で顔を覆い、嗚咽を押し殺した。
キアンの首が石畳に転がった時の鈍い音、飛び散った血の鮮やかな色彩が、まぶたの裏を熱く焼き焦がす。
「なんということだ……」
ファヒームも茫然と立ち尽くし、手にした包丁を抱きしめるようにしてもらい泣きした。
偉大な百味師が異郷の地で、他ならぬ帝国兵によって命を落としたという事実。最高の地位にあった者でさえ問答無用で殺されるのなら、それ以下の料理人は虫けらのような扱いである。
「おいたわしや王女殿下。お辛い日々でございましたな」
ファヒームは泣きながらも、父親のような温かい声で言った。
「どうかお気を強くお持ちください。おかしなことはお考えになりませぬよう」
「はい……」
「意に沿わぬこともあるでしょうが、カムラン殿下に出会われたのは幸いでした。殿下は結婚されておらず、あなたさま以外に通う女人がいるとも聞きません。私の家族も逃がしてくださいましたし、あなたさまに対しても悪いようにはなさらないでしょう。きっと殿下がお守りくださいます」
ファヒームの慰めは、シャハラの悲しみをわずかながらもやわらげた。カムランが自分を守ってくれていることは理解している。彼と自分には、大宰相メリクおよびヴァイエルという共通の敵がいる。
シャハラは涙を拭い、大きく息を吸った。
「大料理長。この包丁を私に譲ってください。ダーリシュの形見として持っていたいのです」
「お持ちください、アニサ王女殿下」
ファヒームは、包丁を紫檀の箱に戻し、蓋を閉めるとシャハラに差し出した。
シャハラは箱をぎゅうと抱きしめた。
裏庭を吹き抜ける風は心なしか冷たく、彼女はぶるりと身を震わせた。




