第34話 香味の錬金術師と宮廷料理版マヒ・サルフ<二>
そこは厨房で用済みとなった古道具の置き場だった。
黒ずんだ巨大な銅鍋、端の欠けた木桶、緑青の浮いた真鍮の盆などが棚に積み上げられていた。
ファヒームは、入り口の壁に掛けられた灯りから手燭に火を移すとシャハラに渡した。
「では私は上に戻りますので、どうぞごゆっくり。殿下が戻っていらしたら呼びに参ります」と言い残し、扉を閉めて去っていった。
シャハラは使われていない木箱を拾うと、棚から砥石やまな板、ザルや鉄鍋、調味料を入れる壺などを一つずつ取り出して検分した。
使えそうなものを見つけると、木箱に入れていった。
刃物類も錆を落として研げば使えそうだった。
やがて棚の最下段、カビの生えた麻袋の陰に、周囲のガラクタとは一線を画す木箱が仕舞い込まれているのに気がついた。
引っ張り出すと、黒ずんではいるが上質な紫檀の箱で、頑丈な真鍮の留め具が付いていた。なぜこのような立派な箱が、古道具の山に紛れ込んでいるのか。
シャハラは跪き、箱の蓋を押し上げた。中に入っていたのは、一本の古びた包丁だった。
シャハラはそっと箱から包丁を取り出した。冷たい鉄の刃と、木の柄の感触。大きさの割に妙に軽い。
手燭の火を刃に近づけた。それは、宮廷で使われるような豪奢な装飾の施された包丁ではなかった。
黒檀の柄は長年の使用によってすり減り、持ち主の手の形に合わせてわずかに窪んでいた。刃渡りは長いが無骨で、刃の表面には深く黒い錆が浮き、刃こぼれが生じていた。
シャハラの目は、錆の隙間に僅かに残る「独特の研ぎ跡」に釘付けになった。刃の先端から根元にかけて、波打つように刻まれた微細な研ぎの角度。それは右利きの料理人がつける鎬ではなかった。
左利きであった持ち主が、右利き用の包丁を己の手に馴染ませるため、長い歳月をかけて少しずつ角度を調整し続けた非対称の研ぎ跡だった。さらに、柄に近い刃元の部分には、三日月型の小さな刃こぼれがある。
シャハラは急に胸騒ぎを覚えた。
この包丁は……何か変だ。
厨房で使われるありきたりなものではない。
震える指先で包丁を裏返し、火にかざした。柄の裏側には文字が刻まれていた。
『第十の薫座 栄誉あるダーリシュ』と読めた。
「ダーリシュ……?」
シャハラはその名を呟き、息を呑んだ。足元が崩れ落ちるような錯覚を覚えた。
脳裏に、凄惨な記憶が蘇る。
ファルハの王都が帝国の軍靴に蹂躙されたあの夜。
隻眼の将軍ヴァイエルは、彼女を庇って立ったキアンの顔を見るなり言い放った。
『見つけたぞ、ダーリシュ。こんな薄汚い鼠の巣に潜んでいたとはな』
あの時、ヴァイエルはキアンを「ダーリシュ」と呼んだ。
そして、シャハラに料理のすべてを教えてくれた師匠キアンは左利きだった。彼はいつも左手で包丁を握り、食材を刻んでいた。
「まさか……?」
シャハラの手は動揺のあまり震えた。手燭の灯が揺れ、頼りない影を石壁に映し出した。
「これは師匠の包丁? なんで、どうして帝国にあるの……?」
静寂に包まれた地下室に、泣き出しそうな声が響いた。
なぜファルハで料理人をしていた師匠の包丁が、帝国の厨房の古道具の山の中にあるのか。
……ファルハから戦利品として持ち帰った?
いや、あり得ない。シャハラは可能性を即座に否定した。
宝石や金細工が施されたものならいざ知らず、古く刃こぼれした左利き用の包丁など何の価値もない。
わざわざ重厚な箱に仕舞って保管するはずがない。
答えは一つしかない。
この包丁は、ファルハから持ち込まれたものではなく、最初から帝国にあったものなのだ。
シャハラは、錆びついた包丁を両手で強く握りしめた。
キアンは、ファルハの料理人ではなかった。
かつては、帝国の厨房で腕を振るい「第十の薫座」という称号まで持つ料理人だった可能性が高い。
帝国の中枢にいたのに、なぜかファルハに移り住み、最期は大宰相の子飼いであるヴァイエルに殺されてしまった。
「もしかして、師匠も……」
知ってはならないことを知ってしまい、帝国を追われたのだろうか。
呟きは、シャハラの中で氷のような確信へと変わった。
カムランの話では、大宰相はファルハに私兵のための軍事基地を密かに建設し、皇帝を欺く上奏をしているという。
料理人は常に権力者のために食事を作り、時には私的な空間である「食卓」に立ち入ることも許される。
主人の体調、密会の相手、裏で動く物流の不自然さに気がつくこともあるだろう。
キアン……ダーリシュは、主厨房で恐るべき陰謀を知ってしまったのか。
だからこそ帝国から逃亡し、素性を隠し、ファルハの街角で息を潜めるように暮らしていたのか。




